読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

おひとりさま

毎日読んだ本の感想を書いています。いつかお一人様専用のカフェを作りたいという夢があるので店名の候補をタイトルにしました。

「帝一の國」映画を見てきました感想

f:id:ohitori_y:20170503135938j:image

 

菅田くんがほんと好きで、散々言われているようにカメレオンっぷりは今作でもすごいです。語彙。なんというか役を演じてるんじゃなくてその人柄に「なっている」ように見えるのは奇才だなあ、まさに。
一番になる、勝つ、生徒会長になる! っていう野心と、それを抱くようになった過程まで完全に背負っていた。かっこいいー。最後の最後まで鳥肌たつ。ぞくっとくる。

 

 

恥ずかしながら俳優さんそんなに明るくなく、残りのメインキャストでは千葉くんしかわからなかったんだが、キリッと落ち着いた陰の立役者感ぴったりでした。
それにしても28歳かー。高校生役まだまだいけるね。

 

 

そして弾くん役の俳優さん、この作品で初めて演技を見たけど、ああいう爽やかでありながら飄々とした役柄にハマってたなあ。物語の中でも立ち位置が肝というか、この人のさじ加減で局面がまわりにまわる様は見ていて興奮するし爽快でした。

 

 

久々に、見ているあいだ一切の考え事もせず物語自体にのめり込むようにして見ることが出来た映画だったなあ、とおもう。鑑賞後数時間経っても余韻があるし、初めから終わりまで秒単位で楽しさが詰まった純なエンターテイメントだった!

どこかで「暴力のないエリート版クローズ」っていうレビューを拝見しましたが言い得て妙。

 

 

 

 

 

旅猫リポートを読みました

f:id:ohitori_y:20170221193320j:image

 

 

主人公・宮脇悟とその飼い猫・ナナ♂の、1人と1匹でむかう最後の旅のはなし。車にはねられ足を折ってしまったナナを介抱し、それがきっかけで飼い始めることになった冒頭部から、共に過ごした五年間の生活は一切語られず、ある日、よんどころない事情の元、ナナを飼い続けられなくなった悟は、新しい引き取り手を探すための旅にでます。この物語は、転校の多かった悟の小・中・高それぞれの旧友の元を訪れ、引き受け手をさがす旅の模様を描いたはなし。

 

いいやつなんだよ悟が。こんなやついないだろって思う。そこにリアルはないんだけど、でも不思議な実在感がある。温度がある。絶対にこんないいやつ実際にはいないんだけれど、でも悟はいるな、どっかに存在してるな、っていう。やんちゃでひょうきんなようでいて、人の機微はちゃんとひろえる細やかさを内包しておおきくなった。いい男だ。猫ばかっぷりもよく出ててこっちがにやにやしてきます。かわいい。ナナ♂もいいキャラしています。

 

なかなか引き取り手はみつからないんだけれど、残念なようでいてお互いにどこかホッとしている距離感。人間と猫でこんなに波長が合うもんなのかしら。現実のことなんて知らないけれどこの子らにはあり得ると思える。わたしも一緒に旅をしてきたから。おいしい空気を吸って、自然が出すおおきな音をきいて。

 

有川浩さんだいすきで、「塩の街」という作品を読んだとき、むせび泣いて目と鼻が痛くてぐじゅぐじゅになるくらいそれはそれは泣いたことを今でも忘れられない。強烈な読書体験というものがあるならまさにあれだった。この人は、こういう風に人をみている、心の奥深くまでさらけだそうとしている、私たちが、本当は覚えてなけりゃならないのに忘れがちなものを掬い上げて見せてくれる。漠然と、信じてもいいんだと思える。確かに彼らはここにいたんだ。

 

 

おすすめ漫画三連発

f:id:ohitori_y:20170219172722j:image

 

「同居人はひざ、時々、頭のうえ。」原作・みなずき 作画・二ッ家あす

たしか実家に帰ってるあいだに余りにも暇すぎてなにか漫画でも買おうと思ってツタヤ行って適当に手に取った漫画だったんですけど当たり中の当たり好みにどんはまり過ぎて自分の勘って信じていいんだなって思った。主人公は作家をやっている朏(みかづき)という青年で、あることがあって猫を拾って飼い始めるんだけど、この漫画は朏視点とこの猫ちゃん視点の話を交互に描いているんです。猫の名前は作中で「ハル」に決まるんだが、もうこの命名までの過程とか涙なしでは読めない。ほんと動物ものに対する涙腺締めるネジどっかに置いてきた。

 

この朏は昔から本が好きで文章書くくらいしか能がないような日頃の生活にまつわることとか簡単におろそかにする子で、拾われてきたハルちゃんは(メスなんですよこれがまた)野良時代に培った生き抜いていくためのノウハウががっちり身に染みてるからぼんやり生きている朏が危なっかしくて放っておけなくて、仕方ないから面倒みてあげるわくらいの気持ちで飼われてやっている。こうも人と動物、視点が違うだけで考えてることが違ってくるかと可笑しくなってくる。心がじんわりあったかくなるのと我慢できなくて泣けてくるのと、感情を行ったり来たりして忙しいです読んでいると。

 

 

 

f:id:ohitori_y:20170219172730j:image

 

からかい上手の高木さん」山本宗一郎

高木さんがめちゃくちゃ可愛いんです。からかわれる西方も可愛いけどなにかとちょっかいかけちゃう高木さんのいとしさよ。というかふたりがわちゃわちゃしているのがもう既に可愛いのかもしれないな。最近5巻出たばかりなのでこれはもう買って読んだ方がいい。ほんとおすすめします。話の内容はただひたすら高木さんが西方をからかう。これだけ。高木さんはたぶん作中でもそこそこ可愛い立ち位置にいて、反対に西方は冴えない男子の一員のようなポジションだから、どうして高木さんみたいな人が俺のことを構うんだよ? 放っといてくれよおおおおっていう心境でずっといると思う。無下にできない西方可愛いな。これ以上からかわれないようにするための戒めとして、一日からかわれた回数分自宅で腕立て伏せすることを自分に課す西方はげちらかす程可愛いな。

 

特にね、最近発売されたばかりの5巻の冒頭話、これね、たまげるよ。

きいやあああああああと奇声が出る。はずだ。私は止められなかった。高木さんのからかう対象は、西方くんだけじゃ、なかったのね! もう!

 

 

 

f:id:ohitori_y:20170219172737j:image

 

「一人交換日記」永田カビ

前作の「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」を読んではげしく衝撃を受けた。なんだこれは。こんな風に生きている人が、ギリギリのところで行ったり来たり七転八倒してる人が、さびしさに苛まれてる人がいるのか。びっくりだよ。この「一人交換日記」はその後の生活を交換日記風にしてお届けしているかんじなのですが、なぜだかわからないけどこれを読んでいると私も生きてていいんだよなって思えてくるんです。ほんとなぜだかはわからないんだけれど。

 

心から同感過ぎて吐きそうになったのは、あの、アラサー女性にとっての勝手な心の中だけにあるヒエラルキーみたいなのがあってね、きちんと一人暮らしして自立していてもちろん仕事もあって友達も恋人もいて休日も充実していて、みたいな人がピラミッドのてっぺんさ。既婚者もそう。で、その下が恋人がいないもしくは友達少ないけど満足しているし仕事にやりがい感じてますタイプね。その下が恋人いない友達いない仕事もそんなに好きじゃないもしくは無職(休職中含む)、一人暮らしはしてるけど(親の仕送りのおかげ)まあ全体的に暇だなって人。その下にどうあがいても越えられない高すぎる崖があって覗いてみると実家暮らしの人たちがわ~~~~~っと群がっている。

 

なんとなくのイメージなんだけれど確かにそういう思いはあって。実家暮らしに身を落とし母親の呪縛から逃れられないでいる(と思っている)著者さんの辛み、苦しみ、かなしみ、さびしさ。そこから逃れ出ようと奮闘する様。そういうのを読んでいると、いざとなれば死の間際にいったって自分が生きたいとさえ思えば帰ってこられるんだ、と思う。いつだって生きようと思えるしいつだって死のうとも思えるし。他人や環境に支配されてると感じているのはもしかしたら自分だけじゃないかもしれないって、そういう可能性にも気づけるかもしれないし。

 

それにしてもさびしいとか人肌恋しいっていうある種の「満たしてあげなきゃならない欲」っていうのは、ほんともうどうしようもないよな。だって一人じゃ解決できないんだぜ? どうしろっていうんだ。特定の恋人が欲しいわけじゃないのにそこは満たしてあげないとならないって面倒な性質だ。さびしい→誰かと触れ合えば解決ってシンプルだけど難易度高い。今のところさびしすぎて体が凍えたりはしていないけれどいつそうなったっておかしくない。知らないひととハグする夢やたらみる気がするし。この本は、前作同様あまりにも他人事じゃないので再読するにも深呼吸してからじゃないとおちおちページめくれません。

 

一週間フレンズの映画を見に行ったんです

f:id:ohitori_y:20170218191758j:image

 

一週間フレンズの映画を見に行ったんです。

気になったことをまず挙げておく。

・原作では「香織個人の日記」が、映画では「交換日記」に変更されている

・将吾役の男の子の演技どうした?! 棒っぷりにヒヤヒヤさせられる

・はじめくんの声低すぎ問題

ますだおかだの岡田は演技をしていない問題

 

香織個人の日記が長谷くんと香織の交換日記になっている件については、香織が能動的に日記をつけはじめる心境になるまでの過程を2時間では描き切れなかったからでは、と解釈してます。交換日記ってことにして長谷くんに押してもらえばあとは香織ちゃんが折れるだけっていう。あれはあれで映画単体で見ればナイ展開ではない。原作漫画の映画化作品を多数見て免疫をつけてきた私に死角はない。それにしても香織ちゃん可愛かったなー。川口春奈に良いイメージなかったんだけど(なんていうか優等生に見えるけど実は陰でイジメっ子たちを操っている黒幕的な裏のオーラを感じてしまう)、一気に好きになりました。あと山﨑賢人の髪型にもぜひ注目してもらいたい。田舎の高校生っぷりが抜群に出てて個人的好感度NO1です。

 

この映画の味を深くしてくれたのは大人組だなあと思う。教師役の戸次さん出番も台詞もそんなにないですけど要所要所で脇固めてましたよ。香織の記憶のことを最初に長谷くんに伝えて、それとなーく関わるのはよしておけよと諭すんだが、諦めないイケイケゴーゴーな長谷くんを黙って見守ってくれている。頭ごなしに正論を押し付けるんではなく、こうした方がいいんじゃないかと意見を授けた上でただ黙って泳がせてくれる先生。いいよなあ。長谷くんを見て嬉しそうに笑う感じがまたいいんだよ。

 

この映画の中でいちばん忘れられない台詞があって。あることが起こって病院に搬送された香織に付き添っていった長谷くんが、その先で香織のご両親と対面するんだ。「少し話さないか」と言われて香織の父親と長谷くんが暗い待合室でぽつりぽつりと言葉を交わすシーン。もう香織と関わるのはよしてくれないか、と父親が言う。

「君が香織のことを気に掛けるのは、一過性の感情だよね。

 私たちは違う。

 これからも一生、香織と関わっていくんです」

最初に聞いた瞬間、なんてことを言うんだこのひとは! とびっくりしてしまった。長谷くんは香織の記憶のことなんてまったく意に介さずに自ら向き合おうとしてきたんだよ、記憶を戻す手伝いだって試行錯誤してきたのにその過程をまず汲み取ってやってくれよ、10代の高校生がだぞ? 離れていく他人もろとも、積極的に関わろうとしてくれる友人候補さえ蹴ってしまったらお前の娘生涯一人じゃないのか?! といろいろぐるぐる考えた。が、よくよく落ち着いてみると、親の視点からはこう言うしかねーんだろうな。最悪の場合を常に見据えなきゃなんない立場ほど辛いもんはないわな。

 

なんだか原作と映画を比較して思うことはわらわらあるんですけど、長谷くんの報われなさでいったら断トツで映画の方がまじやばいくらい可哀想なんです。語彙失うくらい惨い目に遭っている。香織ちゃんとはじめくんが再会したあとなるべくスムーズにお互いの誤解がとけて想いを伝え合ってお付き合いまでいけるように準備整えておく役=長谷くんってかんじが拭えないよ。間男っていうか当て馬っていうか。いやもうなんていうか。かわいそうなんだよ。原作はもうちょっと救いあった気がすんよ。

 

卒業式の日、戸次先生が「お前がいたおかげで高校生活楽しかった奴は、たくさんいると思うぞ」って言ってくれなかったら、長谷くん屋上から飛んでたんじゃないか。

 

 

ここをつくったわけ

どんな本を読んだのかとか、この本を読んでどんなことを感じて、どんなことを考えたのかとか、書いておかないと片っ端から忘れていく人間です。どんなに感じ入った話だとしても、あらすじとか登場人物の名前とかいとも簡単に頭から消え去る。びっくりだ。この本読んでえらく感動したよなあ! という漠然とした曖昧なイメージは残ってるんだが。だから、共通の本を読んだ人と感想を語り合うということが情けないくらい下手だ。本当に読んだの? って疑問に思われても仕方ない。読んだっちゃ読んだんだけど覚えてないんだよねえ、ってそれはもう読んでないようなもんだよね。意味ないから。こういうことをなくしたくて、出来るだけ目に留まるところに残しておこうと思ってここをつくったんです。

 

だから、もしもここの文章をちらっとでも見かけて、この本面白いんだー読んでみようーと思ってくれる人が1人でもいたなら嬉しいな。ここが存在する理由は100パーセント私のためだけれど、そのうち数パーセントでも他の人のためになるようなことがあったら、それはもう天がひっくり返るくらい青天の霹靂。ラッキーといえばラッキー。けれど、あえて大げさに書くなら、ひとさまに影響を与えたんだと思うと、こわくもなってくるんだよなあ。これは身勝手な考え方だけれど、そもそもこの場所自体が成分100パーセント身勝手で出来上がっているので許してもらえるはずだ。要は自己満足でやっているだけなので好きに取捨選択してもらいたいという話。誰にも読まれないで忘れ去られているとしても、私が覚えていればいいんだよ。

 

書評ブログと題して立ち上げたので、書評以外のことは書いてはいけないと思ってそうしてきたんだが、一人でこそこそとほぼ日手帳に日々の愚痴を書き殴るだけで終わってしまうのもなんだかなあ、と考えるようになってきたので(愚痴で埋まってしまうほぼ日手帳ほど不憫でかなしいものもないな)、たまにはこういう取り留めないことも書いていきたいなー。と思います。これもまあ0から100まで自己満足ですから。誰にも咎められることなく思ったことを書けるだなんて、ネットというものは万能だな。万能感を与えてくれる文化だな。この時代にうまれた私たちはラッキーなのかそうではないのか。いまパッと思いつくことで確実に言えることは、明らかに足腰は弱っているよね。ネットだのパソコンだの無い時代に生まれていれば少しは筋肉がついただろうか。その前にただ生き続けることへの過酷さに打ちのめされて早々にしんでいるだろうな。生きる力がない。それは今も変わらないけれど、補ってくれる偉大な文化が助けてくれている。人間は一人では生きていけないっていうのはもしかしてそういう意味か?

 

伊坂幸太郎「首折り男のための協奏曲」を読んだ

 

f:id:ohitori_y:20170217063951j:image

 

 

安心して読めました。私にとっての伊坂幸太郎は「安定感」がある。読んでおきゃ間違いはない、絶対に損はさせない、っていう気概が最初から備わっている。稀にグラスホッパーとか理解の範疇を超えてくる作品も多いけど。

「首折り男のための協奏曲」は、人の首を折ってころす仕事をしている男と、その周囲にいる人たちの話を集めた短編集です。どの短編も、この首折り男主観の話ではなくて、その周りにいる人たちが語っている話。読んでいてなんとなく白夜行みたいだなと思った。重要な登場人物なのにその人自身の思いが語られず、どうしてそんな行動をしているのか真実も明かされず、ただ周りにいる第三者たちの意見で「首折り男」という人物の型が鋳造されていくかんじ。

 

どの短編も読みごたえがあるものばかりなんだけど、単に好き嫌いで言ってしまうと「首折り男の周辺」と「人間らしく」のふたつが好きです。どちらにも苛められている男の子が出てくる。理不尽で胸糞わるいやり方で追い詰められるんだけれど、爽快な「見えない手」の力によって救われるんだ。あーよかった、って心がスッとします。少し前は、苛めにまつわる話は他人事ではない気がして生理的に受け付けられなかったんだが、さいきんは、どんなに嫌な目に遭わされても天の配剤というか、青天の霹靂のようなある種の「力」で、助けてもらえる結末の話が多い気がするから、信頼して読めるようになってきました。その点でいっても伊坂幸太郎はまさしく安心できる作家。

 

首を折って人をころすなんて(そもそも人をころすってこと自体が)えげつない反人道的な行為だけど、伊坂幸太郎が書くと途端にビジネスの顔になるから、なんだか淡々としている。首折り男も、なにか自分にとって譲れない目的のためだけにビジネスとして人の首を折ってるのかもしれないな、と思えてくる。なにも考えずに食べていくための手段としてとらえてるだけかもしれないが。どっちにしろこわいな。

 

時空のねじれってものが本当にあったとしても、過去に戻りたいとは思わないな。未来に行きたいとも思わない。あまり、昔がどうだった、とか考えなくなってきた。忘れてしまっているというのもあるけれど、いまこの時に何をどう考えたって過去に起きたことは覆らない。そしてたまに、私の記憶と他人の記憶の、あまりにもの食い違いっぷりに唖然となることがあるんだ。で、往々にして相手の記憶の方が正しい。そうなってくると私の信じていた過去はまるまる事実とは違う可能性がある。考えるだけ無駄ってやつ。ここから手を伸ばして過去を改変することができないんなら、いまに集中した方がいいよね。諦めの一種なのかもしれないが、なるべく労力を節約して生きていかないと、この先も何十年生きなきゃならないんだとしたら身体が保たないしね。

 

今朝みた不思議だった夢のはなし

今朝すごく不思議な夢をみた。得体のしれない真っ白いバレーボールくらいの大きさの動物を飼い始める夢と、おばあちゃんがしんでしまう夢。このふたつは場面がくっきり分かれた夢で、動物の夢が第一幕、おばあちゃんの夢が大二幕というかんじだった。

バレーボールくらいの大きさの動物のことを私は夢の中では「ハムスターだ」と認識していた。でも目覚めたいま思い返してみるとあれは明らかにハムスターなんかじゃねえ。そもそもでかすぎるし、かといって犬や猫とも違った。色は真っ白で毛並みはつるっとしている。いつも両手で抱えて移動していた。夢の中で。

現実では絶対にそうはいかないだろう、という態度で私はその動物の面倒をみているのだ。決まった時間に餌をやるだけであとは勝手に育っていくだろう、という考えで適当に飼っていた。実際の私ではこうはいかない。そもそも動物はあまり好きではないし、動物を飼うことによって必然的に発生する、命への責任を背負う覚悟が全くない。こわい。無理だ。一人でさみしいから犬でも飼ってみようかな、なんて1ミリとも思ったことがない。一人でいるこの部屋に自分とは別の生き物が蠢いている感覚は想像できない。そうだ動物がこわいんだ。でも、動物のことを可愛がれる人たちに対してものすごく憧れがあるんだ。だって愛があるもんそこには。生き物に対する無償の愛がないと世話なんてとてもじゃないか続けていけないじゃないか。餌だけじゃない、なんかケージとか、リードとか、必要なものいっぱいあるんでしょ。定期的に病院で検査もするんでしょ。下手したら人間診てもらうよりお金かかるっておばあちゃん言ってた気がする。実家には昔、コロっていう名前で可愛がってた柴犬がいた。赤いマフラー巻いて、散歩だっていってんのにおばあちゃんに抱っこしてもらって帰ってきたりした。老衰でしんでしまった。そうだ、動物を飼うってことは、あの最後の瞬間まで責任をもつってことだ。無理だ。夢の中の私はなんとお気楽野郎だったことか。

 

その後にすぐおばあちゃんがしんでしまう夢をみた。

ものすごく不思議だった。何もかもが。場所も、いまの家ではなくて昔住んでいた家で、ソファベッドみたいなやけに簡易的なところに寝そべっているおばあちゃんがいた。その横にぴったりと付き添っている妹がいて、私はその後ろから黙ってみている。あれがいわゆる神の視点というやつ? で、一番不思議だったのはおばあちゃんの顔。おばあちゃんの顔が本の表紙みたいになっていた。黄緑や青で塗られた表紙の、顔でいうと目にあたる部分にタイトルが書かれていて、瞬きするときみたいに、そのタイトルの文字が歪んだりねじれたりしていた。しばらくそのまま、おばあちゃんも妹も私もなにも言わずに黙ってお互いを見ていたんだが、不意におばあちゃんが「わたしは、もうそろそろかもしれない」というようなことをポソリと呟いて、だんだんとタイトルの文字が揺れなくなった。妹が泣く声が聞こえた。いま思うと、コロがしんでしまった時にきいた彼女の泣き声と似ていたかもしれない。私は、揺れなくなったタイトルに手のひらをあてながら時間を確認した。あのタイトルがどういうものだったかはどうしても思い出せない。