おひとりさま

@yuu_uu_ 本の感想ブログ

一週間フレンズの映画を見に行ったんです

f:id:ohitori_y:20170218191758j:image

 

一週間フレンズの映画を見に行ったんです。

気になったことをまず挙げておく。

・原作では「香織個人の日記」が、映画では「交換日記」に変更されている

・将吾役の男の子の演技どうした?! 棒っぷりにヒヤヒヤさせられる

・はじめくんの声低すぎ問題

ますだおかだの岡田は演技をしていない問題

 

香織個人の日記が長谷くんと香織の交換日記になっている件については、香織が能動的に日記をつけはじめる心境になるまでの過程を2時間では描き切れなかったからでは、と解釈してます。交換日記ってことにして長谷くんに押してもらえばあとは香織ちゃんが折れるだけっていう。あれはあれで映画単体で見ればナイ展開ではない。原作漫画の映画化作品を多数見て免疫をつけてきた私に死角はない。それにしても香織ちゃん可愛かったなー。川口春奈に良いイメージなかったんだけど(なんていうか優等生に見えるけど実は陰でイジメっ子たちを操っている黒幕的な裏のオーラを感じてしまう)、一気に好きになりました。あと山﨑賢人の髪型にもぜひ注目してもらいたい。田舎の高校生っぷりが抜群に出てて個人的好感度NO1です。

 

この映画の味を深くしてくれたのは大人組だなあと思う。教師役の戸次さん出番も台詞もそんなにないですけど要所要所で脇固めてましたよ。香織の記憶のことを最初に長谷くんに伝えて、それとなーく関わるのはよしておけよと諭すんだが、諦めないイケイケゴーゴーな長谷くんを黙って見守ってくれている。頭ごなしに正論を押し付けるんではなく、こうした方がいいんじゃないかと意見を授けた上でただ黙って泳がせてくれる先生。いいよなあ。長谷くんを見て嬉しそうに笑う感じがまたいいんだよ。

 

この映画の中でいちばん忘れられない台詞があって。あることが起こって病院に搬送された香織に付き添っていった長谷くんが、その先で香織のご両親と対面するんだ。「少し話さないか」と言われて香織の父親と長谷くんが暗い待合室でぽつりぽつりと言葉を交わすシーン。もう香織と関わるのはよしてくれないか、と父親が言う。

「君が香織のことを気に掛けるのは、一過性の感情だよね。

 私たちは違う。

 これからも一生、香織と関わっていくんです」

最初に聞いた瞬間、なんてことを言うんだこのひとは! とびっくりしてしまった。長谷くんは香織の記憶のことなんてまったく意に介さずに自ら向き合おうとしてきたんだよ、記憶を戻す手伝いだって試行錯誤してきたのにその過程をまず汲み取ってやってくれよ、10代の高校生がだぞ? 離れていく他人もろとも、積極的に関わろうとしてくれる友人候補さえ蹴ってしまったらお前の娘生涯一人じゃないのか?! といろいろぐるぐる考えた。が、よくよく落ち着いてみると、親の視点からはこう言うしかねーんだろうな。最悪の場合を常に見据えなきゃなんない立場ほど辛いもんはないわな。

 

なんだか原作と映画を比較して思うことはわらわらあるんですけど、長谷くんの報われなさでいったら断トツで映画の方がまじやばいくらい可哀想なんです。語彙失うくらい惨い目に遭っている。香織ちゃんとはじめくんが再会したあとなるべくスムーズにお互いの誤解がとけて想いを伝え合ってお付き合いまでいけるように準備整えておく役=長谷くんってかんじが拭えないよ。間男っていうか当て馬っていうか。いやもうなんていうか。かわいそうなんだよ。原作はもうちょっと救いあった気がすんよ。

 

卒業式の日、戸次先生が「お前がいたおかげで高校生活楽しかった奴は、たくさんいると思うぞ」って言ってくれなかったら、長谷くん屋上から飛んでたんじゃないか。

 

 

ここをつくったわけ

どんな本を読んだのかとか、この本を読んでどんなことを感じて、どんなことを考えたのかとか、書いておかないと片っ端から忘れていく人間です。どんなに感じ入った話だとしても、あらすじとか登場人物の名前とかいとも簡単に頭から消え去る。びっくりだ。この本読んでえらく感動したよなあ! という漠然とした曖昧なイメージは残ってるんだが。だから、共通の本を読んだ人と感想を語り合うということが情けないくらい下手だ。本当に読んだの? って疑問に思われても仕方ない。読んだっちゃ読んだんだけど覚えてないんだよねえ、ってそれはもう読んでないようなもんだよね。意味ないから。こういうことをなくしたくて、出来るだけ目に留まるところに残しておこうと思ってここをつくったんです。

 

だから、もしもここの文章をちらっとでも見かけて、この本面白いんだー読んでみようーと思ってくれる人が1人でもいたなら嬉しいな。ここが存在する理由は100パーセント私のためだけれど、そのうち数パーセントでも他の人のためになるようなことがあったら、それはもう天がひっくり返るくらい青天の霹靂。ラッキーといえばラッキー。けれど、あえて大げさに書くなら、ひとさまに影響を与えたんだと思うと、こわくもなってくるんだよなあ。これは身勝手な考え方だけれど、そもそもこの場所自体が成分100パーセント身勝手で出来上がっているので許してもらえるはずだ。要は自己満足でやっているだけなので好きに取捨選択してもらいたいという話。誰にも読まれないで忘れ去られているとしても、私が覚えていればいいんだよ。

 

書評ブログと題して立ち上げたので、書評以外のことは書いてはいけないと思ってそうしてきたんだが、一人でこそこそとほぼ日手帳に日々の愚痴を書き殴るだけで終わってしまうのもなんだかなあ、と考えるようになってきたので(愚痴で埋まってしまうほぼ日手帳ほど不憫でかなしいものもないな)、たまにはこういう取り留めないことも書いていきたいなー。と思います。これもまあ0から100まで自己満足ですから。誰にも咎められることなく思ったことを書けるだなんて、ネットというものは万能だな。万能感を与えてくれる文化だな。この時代にうまれた私たちはラッキーなのかそうではないのか。いまパッと思いつくことで確実に言えることは、明らかに足腰は弱っているよね。ネットだのパソコンだの無い時代に生まれていれば少しは筋肉がついただろうか。その前にただ生き続けることへの過酷さに打ちのめされて早々にしんでいるだろうな。生きる力がない。それは今も変わらないけれど、補ってくれる偉大な文化が助けてくれている。人間は一人では生きていけないっていうのはもしかしてそういう意味か?

 

伊坂幸太郎「首折り男のための協奏曲」を読んだ

 

f:id:ohitori_y:20170217063951j:image

 

 

安心して読めました。私にとっての伊坂幸太郎は「安定感」がある。読んでおきゃ間違いはない、絶対に損はさせない、っていう気概が最初から備わっている。稀にグラスホッパーとか理解の範疇を超えてくる作品も多いけど。

「首折り男のための協奏曲」は、人の首を折ってころす仕事をしている男と、その周囲にいる人たちの話を集めた短編集です。どの短編も、この首折り男主観の話ではなくて、その周りにいる人たちが語っている話。読んでいてなんとなく白夜行みたいだなと思った。重要な登場人物なのにその人自身の思いが語られず、どうしてそんな行動をしているのか真実も明かされず、ただ周りにいる第三者たちの意見で「首折り男」という人物の型が鋳造されていくかんじ。

 

どの短編も読みごたえがあるものばかりなんだけど、単に好き嫌いで言ってしまうと「首折り男の周辺」と「人間らしく」のふたつが好きです。どちらにも苛められている男の子が出てくる。理不尽で胸糞わるいやり方で追い詰められるんだけれど、爽快な「見えない手」の力によって救われるんだ。あーよかった、って心がスッとします。少し前は、苛めにまつわる話は他人事ではない気がして生理的に受け付けられなかったんだが、さいきんは、どんなに嫌な目に遭わされても天の配剤というか、青天の霹靂のようなある種の「力」で、助けてもらえる結末の話が多い気がするから、信頼して読めるようになってきました。その点でいっても伊坂幸太郎はまさしく安心できる作家。

 

首を折って人をころすなんて(そもそも人をころすってこと自体が)えげつない反人道的な行為だけど、伊坂幸太郎が書くと途端にビジネスの顔になるから、なんだか淡々としている。首折り男も、なにか自分にとって譲れない目的のためだけにビジネスとして人の首を折ってるのかもしれないな、と思えてくる。なにも考えずに食べていくための手段としてとらえてるだけかもしれないが。どっちにしろこわいな。

 

時空のねじれってものが本当にあったとしても、過去に戻りたいとは思わないな。未来に行きたいとも思わない。あまり、昔がどうだった、とか考えなくなってきた。忘れてしまっているというのもあるけれど、いまこの時に何をどう考えたって過去に起きたことは覆らない。そしてたまに、私の記憶と他人の記憶の、あまりにもの食い違いっぷりに唖然となることがあるんだ。で、往々にして相手の記憶の方が正しい。そうなってくると私の信じていた過去はまるまる事実とは違う可能性がある。考えるだけ無駄ってやつ。ここから手を伸ばして過去を改変することができないんなら、いまに集中した方がいいよね。諦めの一種なのかもしれないが、なるべく労力を節約して生きていかないと、この先も何十年生きなきゃならないんだとしたら身体が保たないしね。

 

今朝みた不思議だった夢のはなし

今朝すごく不思議な夢をみた。得体のしれない真っ白いバレーボールくらいの大きさの動物を飼い始める夢と、おばあちゃんがしんでしまう夢。このふたつは場面がくっきり分かれた夢で、動物の夢が第一幕、おばあちゃんの夢が大二幕というかんじだった。

バレーボールくらいの大きさの動物のことを私は夢の中では「ハムスターだ」と認識していた。でも目覚めたいま思い返してみるとあれは明らかにハムスターなんかじゃねえ。そもそもでかすぎるし、かといって犬や猫とも違った。色は真っ白で毛並みはつるっとしている。いつも両手で抱えて移動していた。夢の中で。

現実では絶対にそうはいかないだろう、という態度で私はその動物の面倒をみているのだ。決まった時間に餌をやるだけであとは勝手に育っていくだろう、という考えで適当に飼っていた。実際の私ではこうはいかない。そもそも動物はあまり好きではないし、動物を飼うことによって必然的に発生する、命への責任を背負う覚悟が全くない。こわい。無理だ。一人でさみしいから犬でも飼ってみようかな、なんて1ミリとも思ったことがない。一人でいるこの部屋に自分とは別の生き物が蠢いている感覚は想像できない。そうだ動物がこわいんだ。でも、動物のことを可愛がれる人たちに対してものすごく憧れがあるんだ。だって愛があるもんそこには。生き物に対する無償の愛がないと世話なんてとてもじゃないか続けていけないじゃないか。餌だけじゃない、なんかケージとか、リードとか、必要なものいっぱいあるんでしょ。定期的に病院で検査もするんでしょ。下手したら人間診てもらうよりお金かかるっておばあちゃん言ってた気がする。実家には昔、コロっていう名前で可愛がってた柴犬がいた。赤いマフラー巻いて、散歩だっていってんのにおばあちゃんに抱っこしてもらって帰ってきたりした。老衰でしんでしまった。そうだ、動物を飼うってことは、あの最後の瞬間まで責任をもつってことだ。無理だ。夢の中の私はなんとお気楽野郎だったことか。

 

その後にすぐおばあちゃんがしんでしまう夢をみた。

ものすごく不思議だった。何もかもが。場所も、いまの家ではなくて昔住んでいた家で、ソファベッドみたいなやけに簡易的なところに寝そべっているおばあちゃんがいた。その横にぴったりと付き添っている妹がいて、私はその後ろから黙ってみている。あれがいわゆる神の視点というやつ? で、一番不思議だったのはおばあちゃんの顔。おばあちゃんの顔が本の表紙みたいになっていた。黄緑や青で塗られた表紙の、顔でいうと目にあたる部分にタイトルが書かれていて、瞬きするときみたいに、そのタイトルの文字が歪んだりねじれたりしていた。しばらくそのまま、おばあちゃんも妹も私もなにも言わずに黙ってお互いを見ていたんだが、不意におばあちゃんが「わたしは、もうそろそろかもしれない」というようなことをポソリと呟いて、だんだんとタイトルの文字が揺れなくなった。妹が泣く声が聞こえた。いま思うと、コロがしんでしまった時にきいた彼女の泣き声と似ていたかもしれない。私は、揺れなくなったタイトルに手のひらをあてながら時間を確認した。あのタイトルがどういうものだったかはどうしても思い出せない。

 

恩田陸「ネバーランド」を読んだ

f:id:ohitori_y:20170216193047j:image

 

 

はー。自分の世界が狭いなあと感じることが最近とくに多い。もっと視野を広く持ちたい気持ちは常にある気がするんだけれど行動が伴ってない。そもそも視野を広くするってどうするんだ? 自分の世界を広げるにはどうすればいいんだ? 自分とは違う価値観の人ともたくさん会って話をして、海外旅行をしていろんな文化に触れて、人生経験というものをもっと積まなきゃならないのか? 5分でも時間があれば本を読みたい。私の世界は本と全国公開される映画とニコニコ動画と家族と信頼できる友人数人でできている。こう書くとそこまで悪い世界ではないし(少なくとも私にとっては)、世界が狭かろうが広かろうが、判断できるのは主観だけで、他人にわざわざ捕まえられて「お前の世界はなんて狭いんだ」と非難される謂れはないんだよな。そう思うと一気に楽になったわ。

 

 

恩田陸ネバーランド」を読んだ。

舞台は男子校付属の松籟館という寮。年末年始、それぞれある理由があって、帰省をせずに居残り生活をすることになった寮生である男子高校生4人(正確にいうと寮生3人と自宅登校1人)の、約1週間にギュッと詰まった青春くさい群像劇。

という触れ込みなんですが、少なくとも序盤は決して青春青春していない! むしろちょっとこわい! 鳥肌が立った!

美国(よしくに)というキャラを軸に、同級生の光浩、寛司、統という登場人物が、短い冬休みの中で互いの秘密を知り合っていく。きっかけは夜の空いた時間を潰すためにはじめたカードゲームだった。負けた者が「告白」か「実行」、すなわち、自身の隠していた秘密を暴露するか、他3人からの命令に黙って従うかを選ぶことになる。

まずはじめに統が、自分と、幼い頃にしんでしまった母親と間にある「疑惑」について思うところを話しはじめるんだけど、まー怖い。なんていうかこのキャラの、放っておいたら何をしだすか予想もつかないような、不安定な感じがすごく表現されてて、口は達者でひょうきんなのに目は笑っていないような様がありありと想像できてものすごく怖いんですよね。これはなんとも言えない。

真冬の深夜に奇妙なゲームをして、不意に吹く強い風で窓が鳴ってビクッと驚くような彼らの心地がそのまま伝わってきます。同じく夜に読んでいたらこわくて眠るのためらうくらいでした。輪をかけるようにそれぞれのキャラが抱えてる過去っていうのがこれまたどす暗くて、特に光浩くんが長年悩まされているある「問題」は生臭くて逆に冷静になってしまう。

 

不穏な導入部ですが、読み進めていくときらきらした青春ぽさが覗いてきます(青春ぽさって言葉にするとなんとまあ白けちゃう……)。男子高校の寮、なんて字面を見ただけでわくわくするから、時間が進んでいくにつれ、この字面から期待できる男子高校生たちの浮き沈み、瑞々しさみたいなものが感じられてホッとした。お互いの深い部分を知っていくにつれ、ある種の気まずさが生まれるのも若さ故なのかな、とも思ったり。だって大人になったらあまり他人の深い悩みに触れる機会は減るもんね。10代の頃みたいに易々と「こんなことでしにたいくらい悩んでます!」っておおっぴらに言うことは皆無に近いと思う。でもこれくらいの年齢だと、予期してないタイミングでいきなり相手の触れちゃならない部分に触っちゃったってことはままあることだと思うし、そのあと、どうしようって悩むのも彼ららしい。意外と晒し合ったあとも普通に話せたりして拍子抜けしたりとか。あるんだろうな。そういう一種の駆け引きも含めてたのしい。本人たちは疲れてるだろうけど。

 

この子たちの世界は決して広くはない。でも狭くもないとも思う。昼間は学校で勉強をして、終わっても帰る先は隣にある寮で。24時間「教師」と「生徒」が周りを埋めている環境が広いのか狭いのかという問題は、最初にも書いたけれど他人が判断するようなことじゃーない。と思う。狭いことは悪いことなのか、視野狭窄とよく言うけれどそれがイコール悪いことに繋がるのか。極論、本人がこれで満足だと思えばその世界は合っている。広げたいと思えば勝手に広げる。いまの世界を「狭いから駄目だ」と他人に判断されることを怖がらなくたっていい。良いと思えば良い。居心地の問題ですよね。

 

どこかコンプレックスがあった。決まった生活の中のルーティンをこなすだけで毎日が終わっていくことが、悪いことなんじゃないか? いつか何かのきっかけで、他人に糾弾されるんじゃないか、笑われて下に見られるんじゃないか? 自分が、これで満足だ充分だと思える世界を、狭い足りないとネガティブな言葉でけなされることへの恐怖。でも考えてみれば今まで生きてきて誰かにそんなことを面と向かって言われたことはない。結局みんな自分の人生にだけ集中しているし、良い意味で他人に必要以上に興味がない。私は私の足りている世界でこれからも生きていきたいと思うし、彼らもそうだと思う。

 

 

最果タヒを読んだ

f:id:ohitori_y:20170211174514j:image

f:id:ohitori_y:20170211174520j:image

f:id:ohitori_y:20170211174537j:image

 

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」をかるーい気持ちで手に取って(詩集だってこともあまり気に留めないで買った、今までまともに読んだことないのに)すっかり好みにハマりすぎて他作品も少しづつ追ってるところです。

 

恥ずかしながら、高校生の頃サイトつくって自作の詩を公開してた時期があり、毎日のように書いては上げて書いては上げて、って繰り返してた頃を思い出した。恥ずかしい。10代にありがちな自意識肥大化現象でした。恥ずかしいわ。

 

思えば大学入っても文芸愛好会はいって詩とか小説とか書いてたし今もこうやってブログ書いたり日記書いたりしてる。気が病んできたら何かしらの生産活動をすると良いって聞くのは言い得て妙だな。その通りですね。

 

最果さんの詩は正直に言うと何書いてあるかわからん。言葉まわしが好きで延々と読めるけど何を言いたいのかは露ほどもわからん。でもそこがいいです。このさき何回読んでも新鮮に感じるだろう。そういう風に確信できるっていうのが、なんでか安心します。

 

「夫のちんぽが入らない」を一気に読んだ感想

f:id:ohitori_y:20170204173115j:image

 

「夫のちんぽが入らない」  こだま・著

 

一気読みしました。

一言でいいたい。読んで!

 

好きな人ができて、相手も自分のことが好きで、なんの問題もなく順調に物事は進んでいくのに、ただただ、「入らない」。

身体的にも精神的にも痛い。こんなことってあっていいんだろうか、あるものなんだこんな現象がこの世の中に。

辛いとかしんどいとか、言葉では片付かない。

他人の経験を字で追っているだけなのに、心情を想像するといてもたってもいられない。たまらない。

ほんとに、こんなことあっていいんだろうか。

 

このこと以外にも、様々な問題が駆け抜けていった20年の時間。

それでも、淡々と、「まあ仕方ないか」と、擦り切れるような思いを抱えながらも潔く、「これが私たち夫婦の生き方なんです」と言えるかっこよさ。

 

はー。

しびれる!

読んでよかった。女性であることに何故だか誇りを持てる。

恋人がいなくても結婚していなくても子供がいなくても私は生きてるし女だよって言いたい。