誰でもうつになる可能性がある
序盤で「はッッッッ!」となった箇所があって。
うつを治すためにはどうすればいいか、端的に書かれた一文。
「自分を好きになればいい」
やっぱりそうなのか、と。
この現代日本に「鬱になる可能性ゼロの人」なんていないと思っていて、だからこそ、いまは心身ともに健康である自分だって、いつどんなきっかけでトンネルに迷い込むかわからないだろ、とおもってます。
自衛のためというか予防のためというか(できるのかどうかは置いといて)鬱に関する書籍を読んで「こういう時が危ないんだな」「こういう考え方が危険なんだな」って方向性をひとまず掴んでおきたい。
そう思い、まずは読みやすい漫画から、と思って手に取った本書ですが。
自分を好きになる。
これは……、この記事でも触れたキーワードだ。
やっぱり自分のことを好きであるか嫌いであるか、がバロメーターのひとつなのかしら。自分のことを好きな状態で鬱になるわけないもんな、よくよく考えたら。そんなに重要な概念だったとは。あらためて驚きだ。
鬱になるきっかけのひとつ
人が鬱をはじめ精神障害を患うきっかけのひとつに(幼少期の虐待やイジメ等、明らかに他人によって害を被る場合を除き)、「仕事または学業において大成功をおさめたとき」があるそうで。
言葉で見るとすごく良い状況だし、成功して気持ちも乗ってるはずなのに、なんで??っておもうんですが
成功すると、その結果を受け取り、継続させようとがむしゃらに頑張る
↓
周囲からの期待やプレッシャーに負けないようにとさらに頑張る
↓
頑張り続けて
↓
いざって時に望まれた結果が出せなかったりすると、無力感に襲われうつ発症のきっかけに。
という流れが実に多いということです。
私も、一歩手前だったのかも
私自身のことを書かせてもらうと、これまでの人生を振り返ってみて、もしかしたらあれはうつ(もしくはその兆候)だったのでは?と思い当たる時期が2つあって
①大学生の頃
②入社して3年くらい経った頃
学生の頃、とにかく学校に行くのが嫌で、朝起きて体が動かなかったり、せっかく動いても玄関から出られない、電車に乗れないってことが年に数十回あったり
それでも私立だったんで、馬鹿みたいに学費高いし、卒業出来なかったり留年したりしたら親に合わせる顔ない、と思ってそこだけは死ぬ気でなんとかしましたが
そんな中でも、卒業論文通らなかったら全体の単位足りなくて卒業不可能、っていう状態でした。
葬儀社勤めだった頃は、入社した頃は仕事がとにかく忙しいし覚えることも膨大にあるしで、今となってはあんまり記憶ないんだけど
3年経ってある程度慣れてきた時に、食欲なかったり食べ物の味が分からなかったり本読みたいとか映画見たいとか、趣味に対する意欲が全く湧かなくなって感情が死んだみたいになりました。
どちらのケースも特に大きな成功をおさめたわけではないんですが、もっと視野を広げてみると、
「大学に受かった」「新卒で正社員採用された」
というだけでも私にとってはもの凄い成功、と言えなくもないかなと。
通院や服薬の経験はありませんが、今思うと片足突っ込んでたのかもな、と俯瞰できる今ならおもいます。
仕事辞めてフリーターやってる今は、やりたいことやれてるし夢もあるし上々です。
「うつ」の前に自衛する入門書
うつ寛解のためには思い切って仕事を休む、会社を辞める、自分を好きになる努力をする。
こうやって考えてると、やっぱりどれだけ表向き明るく何の問題もなさそうに見える人でも、危険性は潜んでるんだ、とおもえてならないです。
この「うつヌケ」は漫画なので読みやすいですし、うつをはじめとした精神障害についての正しい知識も得られるし、症状はどんなものなのかもわかりやすく書かれてるし、うつとしての入門書としてとても良いなと感じました。
同時に、現在うつ状態で苦しんでいる人にとっても救いのきっかけになると確信しています。
アラサーにして自分の野心を思い出した話
読んでいておもったことは、やっぱり私の夢は文章を書くことを仕事にすることだってこと。自分の本を出すこと、それが人の役に立つこと。
そしてゆくゆくはブックカフェを開店して、本好きのお客さんの相手をしながら晩年、好き勝手に本を読んで過ごすこと。(そのためにも、目は大切にしたい。)
直視したくなかった。これが私の夢だ!って自覚したくなかった。だって叶わないから。叶わないと半ば思ってきたから。
この本を読んでたら、もしかしたら叶うかも、信じて行動を起こして、その行動を続けて、信じて、続けて続けて、それを継続していたら、きっと。
そう思わせられちゃうくらい「野心」に溢れてる内容です。
ブロガー・作家として活躍するはあちゅうさんと、ライフスタイルプロデューサーという肩書の村上萌さんの共著です。
おふたりがどんな経緯を通していまに至るのか、学生時代からさかのぼって、割と赤裸々に書かれてます。
構成としては、おふたりの学生時代から就職にかけての「自分探し期」
いま自分のしていること、選んできたことは正解なのか、色々とやってみる「試行錯誤期」
やりたいことを定め、それに向かって邁進する「理想の自分実現期」
と大きく3つに分かれています。
呼んでいて個人的にぐっときたのは、就職活動について書かれている部分で
もしあの頃にこの本を読んでたら、自分の夢や目標に変なフィルターをかけずに好きなこと出来てたかもなあ、とおもう。
今となっては、あのとき何を考えて葬儀会社に入社したのかわからないし、辞めたい辞めたいと毎日念じつつ結局5年近くも勤めたのか、ほんと定かじゃないです。
あの時期が無駄だったとは思わないけど、やっぱり好きなこと、やりたいことになりふり構わず向かっていくべきだったよ。若かったもん。きっと「正社員になれるから」「給料いいから」っていう世間体と目先の利益だけで飛びついちゃった。今さらこんなん言っても仕方ないんだけどすこぶる後悔してる。
作中ではあちゅうさんが言っていることで
「かっこ悪いことも率先してやってこそ、誰かの心が動く」
という一文があって。
あー。あー。そうだね。そうだよなあ、とおもった。かっこ悪いことから逃げたんだな私は、ってね。親に認められたいから正社員になった。若いのにそんな大変な仕事やってるんだ、って言われたいから葬儀会社に入った。
実際認められたし、ちやほやもされました。この表現が適切かはわからないけど。
当時23とか24くらいで、しかも女性で、葬儀式とか宗教とかその当たりに関わって知識のある人なんて周りには同期の子たちしかいなかったし。
どこか満たされた気分というか、誇らしい気分でいたよ。
でもそんな時期は長くは続かなかったな。激務の中で友達は減ってやりたいことも見失って、とりあえず毎日毎日飛び込んでくる仕事をこなしてやっつけて。
こうやって思い返してると、うん、やっぱり人生、やりたいことやるべき。これをしたい!って思える何かがあるなら向き合った方がいい。誰も代わりにやってくれないんだし。責任だってとってくれないけど。
わたしだって遅くないと思ってる。
やりたいことやりたいと思って辞めたんだし、それでもまだ今この瞬間だって迷走してるけど。
あと個人的にもの凄く刺さった箇所があって
「エッセイやコラムを書きたいと言う人の9割が、特に普段から何かを書いているわけではなく、誰かを紹介しようにも、サンプル原稿も、作品を見られるブログなどもなかったりします。それは『書きたい』のではなくて『書く人だと思われたい』だけではないでしょうか。(中略)何者でもない人ほど、先に場所を欲しがるんです」
ここ。いてててー!という感じ。
まさにそう、おっしゃる通り。場所が欲しいんです。書きたいっていう欲はあれど形にはなってなかったり、とりあえず評価が欲しいだけだったり。
コラムやエッセイを書く人になるためには書くしかない。ただ漫然と書いていても意味はなくて、書きたいことが読み手に伝わるように書く、そして公に目に触れる場所に出す努力、然るべき方向へ発信する努力が必要。
謙遜しすぎず、自作のものを自信もって売り出す努力も必要ですよね。
そこからあわよくば誰かに見初めてもらって……なんていうシンデレラストーリーもまだまだ期待してしまいますが。
まあその辺だって努力の継続がなければ卓上の空論です。
夢を叶えるための努力って、字面では大層なことにおもえるけど、やろうと思えば今この瞬間からだってできる。
留学したかったらお得なプランを検索するところから始めるとか。
英語覚えたかったらSkype英会話はじめるとか。
起業したかったら関連書を読むとか。
結婚したかったら婚活パーティ行くとか。
後先考えずとにかくやってみる。
年齢は関係ないな、って今なら思えます。この本を読んだ今なら。
ずるい自分を許すためにまず意識したこと
前回の記事でもちらっと触れたんですが
自分を好きになるには、まず自分の「どんなところが嫌いか」を明確にして、見つめて受け入れて許す、っていうプロセスが必要だと知って
ひとまず私は自分自身の「ずるい部分」が嫌いだ、とここはもう明らかなので
ここからやっつけていこう、と思うに至りました。
ずるい自分を自覚して見つめて受け入れて、許すためにまず、意識したこと。
自分のためにも書いておこうと思います。
・どんな時に自分のことをずるいとおもうか
ずるい自分を見つめるために必要な前段階の作業として、どういう瞬間にそういう自分を感じるか、ていうのをはっきりさせたい。
わたしの場合は、何を置いてもまず仕事のとき。
大なり小なりミスをして、「あ!またやった!」となった時に、正直に先輩または上司に報告して、そこから素直にリカバリーを図れない、とき。
ミスしたけど、なかったことにする。
見て見ぬふりして隠蔽して流す。私じゃないですよーって顔をして、そのまま仕事を無理矢理に終わらせ、何気ないふうに「お疲れ様でしたー」って、帰る。
あともう一つあって、人と会う約束をする時とか、断りたくてとっさに嘘をつくとき。
仕事だから、って言ってとにかく断りまくる。人と会いたくない会話したくない、そんな時に半ば条件反射で嘘つくようなときに、「あーずるいなー」となる。
(ここで言っておきたいのは、決して会う友達や知り合いのことが嫌いなわけではなく、ただただ私の問題なんだよってこと。病気みたいなもんなんだ、これという理由はないんだけど人と会うことに耐えられないときがあるんだ)
上記2つのシチュエーションで主に自分のずるさを実感するわけですが
この真っ只中で私が何を考えているかというと、ひたすら罪悪感です。そして逃げの気持ち。ひたすら逃げ去りたい、この状況が過ぎ去ってほしい、早く時間が経って無かったことになればいい、っていう気持ち。
さて、こんな時に、次の段階として何をすればいいか。
・ずるい自分をただひたすらにみつめる
「みつめる」ってどういうことか、私なりの解釈でいうと
その状況を体中で感じる、っていうのと
その時の感情をひたすら味わう、っていうことかな、とおもいます。
今まではそんな自分を認めたくなくて、受け入れたくなくて、逃げたい逃げたいとおもって視界にも入れずに逃げてましたが
そこをぐっとこらえる。
努力が必要だとしたらここかな、とおもう。
正直にいって今のわたしはまだまだこの段階です。逃げずに目を逸らさずにいるだけで、現実では何の行動も起こしてません。
本来であれば、ミスを自己申告して謝らなきゃならないんだけど、人間としてそのレベルに至っていない。いずれはこんな自分もみつめて受け入れなきゃならない、とは頭ではわかってるんですが。
そして、そのあとはもう
・受け入れる、そして許す
だけです。
最後まで、ずるい自分を更生する行動は起こさないつもりか、と思えてならないですが
受け入れる、ってのをきちんとやり切れてから、の話なんです。それは。
そして心底許せてからでないと素直になれない。謝れない。世間の人からみたら何を甘えてんだ、と石を投げられるでしょうが。
受け入れるというのは、イコール許すだとおもいます。受け入れられたらもう許したのと一緒というか。
許せるのは自分しかいない。だってこんなずるい自分を手放しに許す人なんて自分以外にいないし。親だって厳しいよ。
だったらまずは、自分だけは認めて許してあげる。はっきりと「許せたな」とおもえるサインみたいなものは、ずるい自分を意識しても心が重くならなかったら、かなあ。
「ああずるいよ、でもしょうがないじゃん!」って開き直れるかどうか。
判断材料はそのへんの心の動きかなとおもう。見逃さないためにも常に自分の感情を意識して、みつめてあげることが大事だと。
ここまで書いてきて思ったけど、めちゃくちゃ壮絶な道のりだ。受け入れて許す境地に至るまでいったい何年かかることやら……。
もしかしたら死ぬときまで完全には受け入れられないままかもしれませんが、まあ、そのときはそのときで。
「自分を好きになろう」を読んで自分を好きになりたくなった
突然ですけど自分のことが嫌いです。
というか、好きではない。積極的に自分に対して好き嫌いの感情がわかない。けど、好きではないことは確か。これだけはわかる。
こういうこと言うと私のことを実生活で知ってる人は「嘘でしょ?」って思うとおもう。外面は良くしてるし、割といつも笑顔で楽しそうにしてるから。
それとこれとは別だよ、というはなし。
いくら対面は良く保っていても、自分のことなんて心の底から好きにはなれないし、認められない。それが本音だ。
けど、この本を読んで少しだけ考え方が変わった。
自分を好きになろう うつな私をごきげんに変えた7つのスイッチ
- 作者: 岡映里,瀧波ユカリ
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2017/06/15
- メディア: 単行本
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東日本大震災の取材を精力的に行う中で心身のバランスを崩し、双極性障害を患って退職を余儀なくされた記者・作家の岡映里さんの著書です。
この本を読んで、双極性障害っていう病名を初めて知ったし、何より簡単に「精神疾患」とか「鬱」とかいっても種類はたくさん枝分かれしてるんだな、と実感。
今年40歳となる岡さんの、約1年半の無職生活の中で、自分にどんなことがあって、何を失って何を得て、そしてどう乗り越えて(というか、受け入れて)いまに至るのか、具体的に、実際に岡さんが試した方法や、助けとなる知恵を得た本、その全部が柔らかい文体で書かれてます。
瀧波ユカリさんの漫画もタッチが可愛くて、深刻さがなくて好きだ。良い意味で。
私自身、家庭環境で悩んだりいじめられたり、心底死にたいと思いつめた時期があるとか、そんなことはなくこれまで生きてきたんだけど
何故か自分のことは好きではなくて、そもそもそれはなんでなのかを読みながら考えていた。おそらくだけど、ざっとこの2つだとおもう。
⑴人間関係の構築がド下手
⑵承認欲求が病的
前者は言わずもがなで、小さい頃から些細なことでも苦労してきた。クラス替え席替えイベント、体育の時間の2人組作ってーとか、班で自由研究してーとか、学生生活は苦痛なことで満ちていた。
友達はいたけど気の合う子ごく数人で固まって、部活はもちろん帰宅部、誰よりも狭い世界で生きていた。
今思うと「学校」っていう空間自体が息苦しくて仕方なかった。初対面の子と話すのも苦手、先生も怖い。クラス内のヒエラルキーてっぺん層の子たちにいつからかわれるか、いつ槍玉に挙げられるか、定かじゃなくて怖くて不安でたまらなかった。
新卒で入社した会社でも似たようなもん。
早々ひとって変われない。
最初の会社にはある程度の年数いたから、辞める直前あたりはそこそこ交流も出来てたけど、それでもプライベートでご飯食べたりするような関係は作れなかったし、今となっては連絡も取り合ってない。
まあ色々と煩わしくなってこちらから遠ざけたんだけど。そういう部分も好きになれない部分。
こんなんだからもちろん恋人もいない。
後者の承認欲求については、仕事するようになってから自覚し始めた部分で
とにかく人から怒られたくない。注意されたくない指摘されたくない怒鳴られたくない。仕事早いね、早いのに丁寧ですごい、あなたに任せれば安心だね、さすがだね、って常に思われていたい認められたい。
こうやって言葉にしてみると、こういう欲求って人として普遍なものにみえるけど
私の場合は、人に怒られたくないがために自分のしたミスを受け入れられない、周りにバレないように隠蔽してなかったことにする、例えバレたとしても自分のせいじゃないと嘘をつく言い訳をする、そういう癖があって最早病気レベルなんです。
罪悪感はある。
正直に謝ってリカバリーを図る方が適切だし賢いし、何より社会人としてそうあるべき。人としても。頭ではわかる。でも逃げてしまう。怖いから。怒られたくないから。自分がこんな馬鹿みたいなミスするなんて信じたくないから。
イタズラしたことバレたくなくて親に隠して、いまに怒られるんじゃないかって隅の方でビクビクしてる子供の行動となんら変わらない。幼稚さ。それが許せない。こんな自分、許して受け入れて好きになれるわけない。そう思ってしまうんです。
自分の根源的な部分が好きになれない、常にそう思ってるときに「自分を好きになろう」をたまたま書店で見かけて、なんとなくピンとくるものがあってその場で購入。読みやすい文章なのでつまることなくすらすら読める。
読んでみておもったことは、何歳になっても変われるのかもしれない、ということ。
この本の中で岡さんは、死にたい死にたいとおもい汚い部屋の中で無気力に日々が流れるままにしていた生活の中で、まず初めにしたことは「部屋の掃除だ」と書いている。
まずは、10秒片付け。
床に散乱しているペットボトルをゴミ箱に入れてみる。空いたコンビニ弁当の器をゴミ袋に詰めてみる。
行動すること、体を動かすことで、心がついてくるっていうのは自己啓発本にさんざん書かれているくらい基本的なメソッドですが
シンプルだからこそ効き目があるのかも。そうおもうくらいに、岡さんの踏み出した1歩は小さすぎる1歩だったけど、そこから「変化」が始まった。
こんなことでいいんだ。
笑っちゃうくらい小さなことでいいんだ。
それから、岡さんは明るい色の服を選んで着るようにしたり、言葉遣いを変えたり、少しづつ少しづつ、人から見たら「そんなこと?」って言われちゃうようなほんとうにほんとうに小さなことから続けて、積み重ねていった。
その流れ、変わっていくプロセスを追うにつれて、
もしかしたら私にも出来るかも、と思えてくるんです。
自分のことは、決して好きになれそうもないけど
嫌いになりたくもない。好きになる努力はしたいと思うし、たぶん、好きになりたい。
岡さんの言う7つのスイッチには、ヨガをしろ、筋トレをしろ、というのもあって
実のところこれが、今まで三日坊主で終わっていた筋トレに再挑戦するきっかけになりました。
些細なことだけど、ほんとうに小さなことだけど、自分のことを好きになるために、筋トレ、いいかも。
何歳になったって挑戦していいし、新しいこと始めてもいいんだよね。
いつか自分の半分くらいは、好きだなって思えるようになるまで、大事に大事に読み返したい。そんな本に出会いました。
「帝一の國」映画を見てきました感想
菅田くんがほんと好きで、散々言われているようにカメレオンっぷりは今作でもすごいです。語彙。なんというか役を演じてるんじゃなくてその人柄に「なっている」ように見えるのは奇才だなあ、まさに。
一番になる、勝つ、生徒会長になる! っていう野心と、それを抱くようになった過程まで完全に背負っていた。かっこいいー。最後の最後まで鳥肌たつ。ぞくっとくる。
恥ずかしながら俳優さんそんなに明るくなく、残りのメインキャストでは千葉くんしかわからなかったんだが、キリッと落ち着いた陰の立役者感ぴったりでした。
それにしても28歳かー。高校生役まだまだいけるね。
そして弾くん役の俳優さん、この作品で初めて演技を見たけど、ああいう爽やかでありながら飄々とした役柄にハマってたなあ。物語の中でも立ち位置が肝というか、この人のさじ加減で局面がまわりにまわる様は見ていて興奮するし爽快でした。
久々に、見ているあいだ一切の考え事もせず物語自体にのめり込むようにして見ることが出来た映画だったなあ、とおもう。鑑賞後数時間経っても余韻があるし、初めから終わりまで秒単位で楽しさが詰まった純なエンターテイメントだった!
どこかで「暴力のないエリート版クローズ」っていうレビューを拝見しましたが言い得て妙。
旅猫リポートを読みました
主人公・宮脇悟とその飼い猫・ナナ♂の、1人と1匹でむかう最後の旅のはなし。車にはねられ足を折ってしまったナナを介抱し、それがきっかけで飼い始めることになった冒頭部から、共に過ごした五年間の生活は一切語られず、ある日、よんどころない事情の元、ナナを飼い続けられなくなった悟は、新しい引き取り手を探すための旅にでます。この物語は、転校の多かった悟の小・中・高それぞれの旧友の元を訪れ、引き受け手をさがす旅の模様を描いたはなし。
いいやつなんだよ悟が。こんなやついないだろって思う。そこにリアルはないんだけど、でも不思議な実在感がある。温度がある。絶対にこんないいやつ実際にはいないんだけれど、でも悟はいるな、どっかに存在してるな、っていう。やんちゃでひょうきんなようでいて、人の機微はちゃんとひろえる細やかさを内包しておおきくなった。いい男だ。猫ばかっぷりもよく出ててこっちがにやにやしてきます。かわいい。ナナ♂もいいキャラしています。
なかなか引き取り手はみつからないんだけれど、残念なようでいてお互いにどこかホッとしている距離感。人間と猫でこんなに波長が合うもんなのかしら。現実のことなんて知らないけれどこの子らにはあり得ると思える。わたしも一緒に旅をしてきたから。おいしい空気を吸って、自然が出すおおきな音をきいて。
有川浩さんだいすきで、「塩の街」という作品を読んだとき、むせび泣いて目と鼻が痛くてぐじゅぐじゅになるくらいそれはそれは泣いたことを今でも忘れられない。強烈な読書体験というものがあるならまさにあれだった。この人は、こういう風に人をみている、心の奥深くまでさらけだそうとしている、私たちが、本当は覚えてなけりゃならないのに忘れがちなものを掬い上げて見せてくれる。漠然と、信じてもいいんだと思える。確かに彼らはここにいたんだ。
おすすめ漫画三連発
「同居人はひざ、時々、頭のうえ。」原作・みなずき 作画・二ッ家あす
たしか実家に帰ってるあいだに余りにも暇すぎてなにか漫画でも買おうと思ってツタヤ行って適当に手に取った漫画だったんですけど当たり中の当たり好みにどんはまり過ぎて自分の勘って信じていいんだなって思った。主人公は作家をやっている朏(みかづき)という青年で、あることがあって猫を拾って飼い始めるんだけど、この漫画は朏視点とこの猫ちゃん視点の話を交互に描いているんです。猫の名前は作中で「ハル」に決まるんだが、もうこの命名までの過程とか涙なしでは読めない。ほんと動物ものに対する涙腺締めるネジどっかに置いてきた。
この朏は昔から本が好きで文章書くくらいしか能がないような日頃の生活にまつわることとか簡単におろそかにする子で、拾われてきたハルちゃんは(メスなんですよこれがまた)野良時代に培った生き抜いていくためのノウハウががっちり身に染みてるからぼんやり生きている朏が危なっかしくて放っておけなくて、仕方ないから面倒みてあげるわくらいの気持ちで飼われてやっている。こうも人と動物、視点が違うだけで考えてることが違ってくるかと可笑しくなってくる。心がじんわりあったかくなるのと我慢できなくて泣けてくるのと、感情を行ったり来たりして忙しいです読んでいると。
「からかい上手の高木さん」山本宗一郎
高木さんがめちゃくちゃ可愛いんです。からかわれる西方も可愛いけどなにかとちょっかいかけちゃう高木さんのいとしさよ。というかふたりがわちゃわちゃしているのがもう既に可愛いのかもしれないな。最近5巻出たばかりなのでこれはもう買って読んだ方がいい。ほんとおすすめします。話の内容はただひたすら高木さんが西方をからかう。これだけ。高木さんはたぶん作中でもそこそこ可愛い立ち位置にいて、反対に西方は冴えない男子の一員のようなポジションだから、どうして高木さんみたいな人が俺のことを構うんだよ? 放っといてくれよおおおおっていう心境でずっといると思う。無下にできない西方可愛いな。これ以上からかわれないようにするための戒めとして、一日からかわれた回数分自宅で腕立て伏せすることを自分に課す西方はげちらかす程可愛いな。
特にね、最近発売されたばかりの5巻の冒頭話、これね、たまげるよ。
きいやあああああああと奇声が出る。はずだ。私は止められなかった。高木さんのからかう対象は、西方くんだけじゃ、なかったのね! もう!
「一人交換日記」永田カビ
前作の「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」を読んではげしく衝撃を受けた。なんだこれは。こんな風に生きている人が、ギリギリのところで行ったり来たり七転八倒してる人が、さびしさに苛まれてる人がいるのか。びっくりだよ。この「一人交換日記」はその後の生活を交換日記風にしてお届けしているかんじなのですが、なぜだかわからないけどこれを読んでいると私も生きてていいんだよなって思えてくるんです。ほんとなぜだかはわからないんだけれど。
心から同感過ぎて吐きそうになったのは、あの、アラサー女性にとっての勝手な心の中だけにあるヒエラルキーみたいなのがあってね、きちんと一人暮らしして自立していてもちろん仕事もあって友達も恋人もいて休日も充実していて、みたいな人がピラミッドのてっぺんさ。既婚者もそう。で、その下が恋人がいないもしくは友達少ないけど満足しているし仕事にやりがい感じてますタイプね。その下が恋人いない友達いない仕事もそんなに好きじゃないもしくは無職(休職中含む)、一人暮らしはしてるけど(親の仕送りのおかげ)まあ全体的に暇だなって人。その下にどうあがいても越えられない高すぎる崖があって覗いてみると実家暮らしの人たちがわ~~~~~っと群がっている。
なんとなくのイメージなんだけれど確かにそういう思いはあって。実家暮らしに身を落とし母親の呪縛から逃れられないでいる(と思っている)著者さんの辛み、苦しみ、かなしみ、さびしさ。そこから逃れ出ようと奮闘する様。そういうのを読んでいると、いざとなれば死の間際にいったって自分が生きたいとさえ思えば帰ってこられるんだ、と思う。いつだって生きようと思えるしいつだって死のうとも思えるし。他人や環境に支配されてると感じているのはもしかしたら自分だけじゃないかもしれないって、そういう可能性にも気づけるかもしれないし。
それにしてもさびしいとか人肌恋しいっていうある種の「満たしてあげなきゃならない欲」っていうのは、ほんともうどうしようもないよな。だって一人じゃ解決できないんだぜ? どうしろっていうんだ。特定の恋人が欲しいわけじゃないのにそこは満たしてあげないとならないって面倒な性質だ。さびしい→誰かと触れ合えば解決ってシンプルだけど難易度高い。今のところさびしすぎて体が凍えたりはしていないけれどいつそうなったっておかしくない。知らないひととハグする夢やたらみる気がするし。この本は、前作同様あまりにも他人事じゃないので再読するにも深呼吸してからじゃないとおちおちページめくれません。