おひとりさま

@yuu_uu_ 本の感想ブログ

ビジネス書が読めなくなる本

 

 

ビジネス書の9割はゴーストライター

ビジネス書の9割はゴーストライター

 

 

 
 
完全にタイトルに惹かれて手に取りました。私自身、自己啓発書やビジネス本は好きでよく読んでるので、影の実情を知る取っ掛かりになるかとおもって。読んでみたら想定以上にすごいことになっている。
 
新卒入社当初、いわゆるビジネスマナーが羅列されたビジネス書は漁って読みました。〇〇な仕事のコツとか女性のビジネスマナーとかそういうのです。大体、書店や図書館では自己啓発書とは別の括りでコーナー設けてありますよね。
 
完全に持論ですが、こういったビジネス書は数を読んでも意味はない。知りたいテーマを絞って読めば良くて、有名な経営者やコンサルタントや医者やタレントが書いてるからっていう見え透いた触れ込みから選ぶべきじゃない。大体ゴーストライターの筆だというのは意外でもなんでもないしそうだろうな、とおもう。
 
単にビジネスマナーだけを知りたいなら関連書を2~3冊読めば充分です。ビジネス書というジャンルには他にも
睡眠を見直せ
集中力を高めるには
職場の人間関係
それから少しスピリチュアル寄りだと
マインドフルネス
などなどのテーマが主だと思うので、著者で選ぶよりも知識を得たいテーマで選んで数冊読んだら次にいく、くらいがいいです。
 
 
ゴーストライターありきの「ビジネス書」
この本によると、大手・中小問わず出版社では担当部署の編集者1人につき年間15~20冊前後のビジネス書発刊がノルマとしてある。コンスタントにこなすためにはゴーストライターなしではもはや成立しない仕組みになっているそうです。
 
大企業の経営者、コンサルタントを「著者」として据え、いわゆるゴーストライターは1回2時間の取材を彼らに対して計5回行い(合計10時間)、聞き取った内容を膨らませつつ1冊の本に仕立て上げる。
 
総じて「著者」は本の作り方、まして文章の組み立て方も知らないために流れを無視して言いたい放題喋るのみ。本として成り立つよう章立てから組み上げるゴーストライターの報酬取り分は約2割。
 
予定通り取材が行われればまだ良い方で、変に自己顕示欲もプライドも高い経営者・コンサルタントは直前で取材をドタキャンしたり、上がったゲラ刷りに余計な茶々を入れて進行を滞らせたりもする。
割に合わず、食べていけないライターも多いそうです。闇が深いですね。
 
 
 
職業として成立している
「著者」は書く時間がないと言って自分では書かない(本作の筆者は「単に書けないだけ」とはっきり断じている)だから代筆してほしい、編集者は発刊ノルマをクリアしたい、ゴーストライターは仕事が欲しい。
たとえ自分では書いていなくとも、求心力のある経営者・コンサルタントが「著者」として据えてあれば自ずと売れる。それが売れる仕組みだからである。
三者の利害は一致しているのでこのようなビジネスモデルが成り立つ。最早ライターではなく「ゴーストライター」として職業が成り立っている側面があります。
 
出版市場の低迷を打開するためには、売れる本を作り続けなければいけない。そのためには「有名な」著者の名前で本を出す。編集者側としては、年間でいくつかのヒット作を出すには半ば流れ作業になってでも複数冊の作業を並行で進めるしかない。
そのためにはゴーストライターを使う以外に時間のやりくりをする術がない。
 
ゴーストライターとしては、その現状や立場に甘んじるのではなく、他にも複数の収入を得るパイプを確保すること。
そのためには各々のスキルアップはもちろんのこと、信頼を得るためのインフラを整える(髪型や服装を一般的な社会人レベルにするとか)、そして巻末に「編集協力」として署名を加えてもらうことが急務。
 
筆者本人の推測や妄想なんかは介入していなくて、信頼できる筋からの証言を元に事実だけが書かれているので、何が問題なのかが明確にわかりやすいです。
 
 
価値のあるビジネス書もあるよ!
本作を読んだあとは巷のビジネス書を読む気が100%失せるんですけど
自己啓発書も含め、ビジネス書には読む価値のあるものもたくさんあるよ!救われるものもあるよ!と言いたいです。
 
「自分が何を知りたいか」ということに重きを置いて本を選べば間違えないし損もしないし、旬な人とか何十冊も本出してる人とかに気をつければ、あとは自由に読めばいいですよ。
 
 
 
 

「火花」実写映画を見てきた感想である

 

なんていうか芸人の世界に限らず芸能界そのものって厳しいものだと思うんです。供給される側からみたら好き勝手に見られるからこそ余計に食い物にされるし。そういう、想像することしか出来ない、表に出ない裏面や背景の一部を提示された気がしました。

 

 

いろんな思いでやってるんだよな。いろんなことを。全部を知ることは出来ないんだけど、それでも、片面しか知らないのにそれで知ったような気になって上から物を言う人間が絶えないし、それを気にする人間もまた多いから不毛だよな。と思いました。


そこで大多数のウケだけを狙う努力と、あくまでも自分の基準をクリアした面白さを追求する努力はどちらも尊重すべきだ。目的に反してさえいなければ。
天秤にかけた上で諦めるのは逃げではないと思いたい。

 

 

お察しの通り、菅田将暉見たさに観た映画ですが、好きなシーンは木村文乃初登場シーン。可愛くて適度に色っぽくて最高でした。

 

 

自分自身がうつになった精神科医の話

 

自分の「うつ」を治した精神科医の方法 (KAWADE夢新書)

自分の「うつ」を治した精神科医の方法 (KAWADE夢新書)

 

 

 
 
「うつヌケ」著者である田中圭一さんが、うつトンネル脱出のきっかけとして出会ったあの本です。精神科医である宮島賢也さん自身がうつを患ってしまった。最終的に、食事と考え方を変える、「栄養療法」と「選択理論心理学」によって克服した、という内容です。
 
年間の自殺者数は増え続ける一方で、約3万人。交通事故死者数が約5千人なのと比べると、単純計算ですが6倍近く多い。
特定できた原因のうち、健康問題においての「うつ病」によるものが最も割合が高いことがわかっているそうです。
よくニュースなどでも仄聞しますが、改めて意識するととんでもないことですよね。
 
この本を読んで知ったことなんですけど
精神科や心療内科においては明確な「診断基準」ってものがあるんですね。
こういう症状にいくつ当てはまったらうつ病だよ、とか統合失調症だよ、とか世界的な基準があるみたいです。半ば機械的に診断、処理できるというのは知りませんでした。今はネットでも簡単にうつ病診断とか出来ますけどあれと似たようなもんなんでしょうか。
 
勝手なイメージですが、診る先生によって判断基準が変わったりするのかな、とおもっていたのでちょっと意外でした。
それだと、あの病院ではうつ病診断だったのに、この病院では双極性障害だったよ、みたいなパターンがままあるのは何故なんだろう?単に双極性障害の診断が難しいだけなんだろうか。
 
あと、精神科医はあくまで、症状を聞き、薬を処方する判断をするだけであって、詳しく話を聞いてあげたり心のケアをしたりという役割は臨床心理士(いわゆるカウンセラー)が受け持つんだとか。きちんと役割が住み分けされてるんですねえ。すっかり混同してました。
 
 
 
うつを治すにはまず「食事」
うつ発症のきっかけとして、親子関係の不和や学校職場での人間関係の悩みが主に挙げられます。うつを治すには、原因であるこれらをまず解決するために働きかける必要があるように思われますが
宮島さんはまず食事から変えていったそう。
ナチュラル・ハイジーン」という食事法です。
 
果物や野菜などの植物性食品を中心にした食事の仕方で、適度に玄米を一緒に食べたり、肉や魚等も禁止ではないので、食べすぎない程度に楽しんで食べたり。
食べる時間帯にも特徴があって、この辺は詳しく書いてありますので是非本書を参照してほしいんですが
宮島先生自身、人間関係や「うつになりやすい考え方」の改善よりもこの食事法を率先して行ったことにより、体調が格段に良くなってうつ治療の素地が出来上がったとか。
 
ポジティブな言葉を使ってアファメーションし、自己肯定感を上げようとか
他人は変えられないものと割り切って受け流そう、大切な人に過剰な期待をせず存在を受け入れて丸ごと感謝しようとか
参考になる話だけで構成されているような本ですが、この食事療法は最も手っ取り早いし、まず1人で取り組めて誰にも迷惑かけないし、わかりやすくてとても良いとおもいました。
 
体調が良くなれば生きることにも意欲がわくと思うんですよね、シンプルに。
 
 
 
他人は変えられないもの
上にも少し書きましたが、他人の意思や考え方を変えるのは根本的に不可能です。
洗濯理論心理学において、他人を無理矢理に変えようとする動きを「外的コントロール」と呼ぶらしいですが
どんな働きかけをしたって無理な話です。
せいぜい「変わったフリ」をされて終わる。関係性は変わらないままか下手すりゃもっと悪くなる。
 
一世風靡したアドラー心理学でも、「課題の分離」といって、他人のことは他人のこと、関与できないんだからほっときなさいっていう考え方がありますが、通ずるものがありますよね。
わたしは最近ようやくこういった考え方が腑に落ちるようになってきました。
 
どうせ変えられないんだからそっとしておく。自分に害が及ばない限りは。
どうしても気に病んだりイライラしてしまう場合は距離を置く。なによりも自分のために。
相手が配偶者だろうと親だろうと子供だろうと関係ない、1人の人間として捉えたら、自分にとってどれだけ大切なひとだろうと「他人」なんだから
尊重するに留めておいて、あとは見守るだけにしておく。自分も相手も心地よい距離感をさぐる。
 
もう少しはやくこういう考え方を知って
もうちょっと早く納得出来ていれば、破綻しなかった人間関係がたくさんあったな、と後悔しそうにもなりますが
それさえも気に病む必要は無いんですよね。気づけた今から始めればいいだけだから。
 
うつであることに罪悪感をもつ必要もないんだなって思えます。
自分ではどうしようもないけど、助けが欲しい、ヒントをくれ、クリニックにはまだかかりたくないという人がもしいたら、ひとまず読んでみるといいとおもいます。
 
 
 

語彙力を高めたいとおもったら

最近「語彙力」をテーマに掲げた本を書店でたくさん見かけます。私自身、普段から読書は良くする方ですが(ジャンルはもんのすごく偏ってるけど)、決して語彙力が高いわけではない。仕事中でも「それはちょっとヤバイですね」とか気を抜いたら言っちゃってます。

少し前に齋藤孝さんのこの本は読ませてもらってたんですが

 

 
 
もう1度原点に戻るつもりでこちらを手に取りました。
 

 

 

 
全文目を通してみて、これは日常生活でスマートに使えそうだな、とおもった語句をすこし引用しますね。
 
篤実
温厚篤実、という熟語もあります。穏やかで誠実の人を評して使う言葉。目上の人を褒める時なんかに使えそうです。
 
仄聞
「そくぶん」と読み、噂話とか風の便りとかいった意味です。「仄聞したところによると」とかさらっと使えるとかっこいい。
 
忖度
最近流行ってますよね。本来は物事が上手くいくように、誰かのために配慮するという意味だそうですが、すっかり良くないイメージがついてしまいましたね。
 
お膝送り
飲み会や会席の場などで、席を詰めてほしい時に「お膝送りをお願いします」などと使うらしいです。
 
 
 
あと、間違えやすい語句もいくつも載っていました。少し引用すると
 
幸先が良い
「幸先が悪い」っていう言い回しは間違っているみたいです。「幸先」という言葉自体が「上手くいきそうな予感」という意味なので、幸先が悪いだと意味が通じないらしい。
普段から使っちゃってました。気をつけよう。
 
檄を飛ばす
「激」じゃなくて「檄」を飛ばす。
目上の人が喝を入れる、みたいな使い方がよく見られますが、本来は考えや主義主張を周りに知らしめること、という意味らしい。
 
敷居が高い
私には恐れ多くてとてもとても……という意味ではなく、不義理のため気まずくて行けない、っていう意味合いのようです。これも間違って使ってました。気をつけよう。
 
なおざり、おざなり
これも間違いやすいですよねえ。どっちがどっちだっけ?となってしまう。
なおざりはいい加減な様子を表し
おざなりはいい加減な言動を表すらしい。
無理矢理にでもイメージつけちゃうと覚えられそうですね。
 
 
 
これ以外にもたくさんの語句が掲載されています。大手企業の重役と接する機会の多いデキるビジネスマンしか使わなさそうな言葉がほとんどですが。語句とその本来の意味が見やすくレイアウトされているのでぱっと見ただけで勉強出来るし、文庫サイズで持ち運びやすいので手軽で良いとおもいます。
 
せっかく勉強しても使いどころがないと忘れちゃうけどなあ。他言語を学ぶ時と似てるかもしれない。
こういう言葉遣いとか言い回しとかが普通にしてても出てくるような人間関係を構築せよということだろうか。ハードル高い。
 
 

死ぬくらいなら会社辞めれば、略して死ぬ辞め

 

「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)

「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)

 

 

 
装丁画や挿絵を手掛ける汐街コナさんの、デザイナー時代のブラック会社勤務経験を漫画化した作品です。
表紙から切迫感、緊急性が漂ってくるようで、ずっとずっと気になっていました。手に取るまで少し時間がかかったのは、読むのが怖かったからです。
同じ「踏み切る」なら会社を辞めるよりもむしろ、と思い詰めた心の動きに覚えがあるから。
 
 
 
感情が麻痺する前に
「うつかも?」とおもう兆候はいろいろあり、食欲不振と不眠がその代表。その病気によって様々みたいですが、目眩や吐き気、幻覚や幻聴が表れたりする場合もあるそうです。
疲れてるだけだろう、と軽くみて頑張り続けていると、ある日急に動けなくなる。起き上がれない、玄関から出られない。
 
症状をきちんと自覚し、動けなくなる前に病院にかかるなり休むなりできる人は、そもそもうつにはならない人。
うつを始めとした精神障害を患う人は、その勇気がない。決断できない判断出来ない、休めない。症状を自覚できない。
みんなもこれくらい頑張ってる
残業100時間とか普通
こんなことで休むなんて情けない
 
麻痺してしまうんだとおもいます。
辛くて苦しいのは他の誰でもない自分なのに、自分の声を聞くことができない。
周りと比較して、世間体が優先順位の一番になる。
体も心も麻痺した状態で無理し続けるから、ある瞬間にぷつっと切れる。マリオネットの糸が上からハサミでじゃきんと切られるイメージかな、と読んでいておもいました。
 
そういえば、前職時代に食欲不振や不眠はたまに、っていう程度でしたが
幻覚幻聴金縛りは3セットでしょっちゅうありました。葬儀社勤めだったのでそのせいかとおもってましたが、それだけでもなかったんでしょうね、きっと。
抜け出せたいま、格段に楽しいです。
生きるのが。
 
 
 
なんでもいいから休め
著者である汐街コナさんは、自身の経験から、少しでも「普通じゃない、おかしい」と思ったら休んでくれ、と投げかけてくれています。
読んで救われるひとはたくさんいるし、ギリギリで踏みとどまれたひともいっぱいいただろうな。
 
休むのって勇気要るよね。
みんなも頑張ってるのに、そう思っちゃうとある程度は無理して仕事した方が世間体も保てるし何より「楽」だし。
でもその楽は続かない。一過性のもの。どこかでぶったぎって無理にでも休まないと。それが難しいんだけどね。
 
過労自死したひとたちを何人か送るお手伝いをしましたが、あとに遺される側には虚無しかないんだ、とおもう。
それこそ「死ぬくらいなら会社辞めれば」いいのに。そう思わせられる。でもそれが出来なかったんだ。なんで、なんでって今度は自死遺族側が自分を責めてしまうんじゃないかな。
 
そうなる前に休むんだ。何がなんでも。
みんなも頑張ってる?  関係ないよ。
辛いと感じてるのは自分自身。休むのは甘えではない。そこを何度でも意識して、原点にして、帰ってこられるように。
 
読みやすく、頭に入ってきやすいし、漫画だから「活字が頭に入っていかない」っていう鬱症状が出ている人でも、絵だけ追うだけでもメッセージが伝わるのではないかな。
 
自分の身は自分で守りましょう。しんだらそこで終わりだよ。会社は潰れてもいいじゃない。先輩や同期だってマジでやばいとおもったら勝手に行動します各々で。
すべて投げ出して休んで自分を守る。
それからの話です。
 
 

下から見るか?横からみるか?

 

例の打ち上げ花火映画見てきました。

酷評がちらちら見えていましたが思っていたよりは良かったです。映像美麗、音響も主題歌も場面を考えた構成で効果的に活きているなとおもった。シャフトなので物語シリーズを彷彿とさせる動きや演出あり。菅田将暉の声はちょっと浮いていた。広瀬すずの方が声優としてハマってる、自然。

 

 

 

 

 

ここから先はストーリーの考察にはいるので未見の方はご注意。

 

 

 

 

 

賛否両論わかれているエンディングですが
ifストーリーというか平行世界ものとしては理想的な終わり方なんじゃないかと個人的にはおもいました。はっきりとした答え、正解を求める巷間の声もわかるけど
あとはお好きにご想像にお任せされた方が好き勝手に解釈できるし受け手側としては幸せじゃないか?

 

 

ほんと私の自分勝手な考察としては
あの不思議な球の力を借りて、典道となずな2人が考える「自分たちにとってより良い世界」を求めて
主軸世界とは違う世界線を模索する、半永久的に続く旅に出たんだとおもう。
(酔っ払い花火師によってあの球は打ち上げられてしまいましたが)

 

 

とにかく2人だけでずっといられる都合の良い世界に行ったんだきっと。
それか「最後の1日」をずっと繰り返してる。
典道だけ記憶を保持した状態で。それも辛いけどな……。

 

 

いくらでも想像の余地はあります。そういう余裕というか空間を残してあの物語は終わってくれたんだとおもう。
これだ!という終わりを公式が提供してくれないと不完全燃焼してしまうようでは想像力がしんでしまう。きっとそういう警告でもあるよ。
もっと不安定要素を楽しんでいきましょう。そういうことにしましょう。

 

 

あと主題歌めちゃくちゃいい。見終わったあと即ダウンロードしました。これを良い音響で聴くためだけに鑑賞料出す価値あるぞ。

 

 

「豆の上で眠る」

 

豆の上で眠る (新潮文庫)

豆の上で眠る (新潮文庫)

 

 

 
このタイトル、「えんどうまめの上でねたおひめさま」という童話がモチーフになってます。もうそれだけでなんだか可愛らしいし、興味をそそられるな。湊かなえ好きなので文庫化を知ってそそくさと購入しました。
 
 
物語の概要
ある仲の良い姉妹のうち姉のほうが突如姿を消してしまう。神社で遊んだ帰り道の一瞬のことだった。やがて、しばらくして戻ってきた彼女のことを、両親含め周りの人間は安堵とともに迎え入れたが、妹の結衣子だけは違和感を拭いきれずにいる。あれからだいぶ時間が経った、いまも。
 
姉の万祐子が行方不明になった10年以上前の夏、8月5日の回想と現在を行き来しながら物語は進んでいきます。
小さい頃から万祐子ちゃんは控えめな性格で、字が綺麗でお菓子作りが得意、体の弱いところがある可愛らしい女の子だった。それに比べて妹の結衣子はおてんば、字も汚いし卵もまともに割れなくて、姉とは血が繋がっていないのでは、とちらちら悩む日々。
 
母親も、きっと私ではなく万祐子ちゃんの方がすき。
そんな中、自分が一緒に帰っていればもしかすると、万祐子ちゃんは無事だったかもしれない状況下で姉は失踪してしまう。罪悪感、恐怖と不安。母親への申し訳なさ、いたたまれなさ。
 
 
失踪当時、現在から数えて約10年前の夏の回想は緊迫感溢れ、誘拐事件を想定して警察の捜査が入るほどになっているが一転、語り部である妹・結衣子にとっての現在では姉の万祐子は無事に「かえって」きている。
読者であるこちら側は冒頭から振り回されます。いったい何があったんだ……?と続きが気になって繰る手が止まりません。
 
 
帰ってきた姉はほんとうに、あの「万祐子ちゃん」なのか。
まさに「豆の上に寝かせる」ようにしてカマをかけ、試すようなことばかり繰り返す結衣子。姉は本物なのか。疑う私が間違っているのか?
 
 
読後感
湊かなえの作品だ、って意識して読むと、ダークさは薄味です。今まで読んだ中から挙げると「夜行観覧車」あたりが雰囲気似てるかも。家族で問題抱えて奔走・迷走するあたりが。
 
そして読後感は決して良くない。
話の流れはミステリーに慣れてる人だったらよめる。最後に明かされる真実も「やっぱりそうだったか」とおもう。
これはミステリーよりも、家族の在り方や向き合い方を真っ向勝負で問われる作品だと言えるとおもうし、さらに因数分解していくと「ひとってなんだ」「偽物本物ってどういう概念だ」っていう、まるで哲学と取っ組みあってるような気持ちになってきます。
 
血の繋がりが最適解ではないんだよな。