おひとりさま

@yuu_uu_ 本の感想ブログ

語彙力を高めたいとおもったら

最近「語彙力」をテーマに掲げた本を書店でたくさん見かけます。私自身、普段から読書は良くする方ですが(ジャンルはもんのすごく偏ってるけど)、決して語彙力が高いわけではない。仕事中でも「それはちょっとヤバイですね」とか気を抜いたら言っちゃってます。

少し前に齋藤孝さんのこの本は読ませてもらってたんですが

 

 
 
もう1度原点に戻るつもりでこちらを手に取りました。
 

 

 

 
全文目を通してみて、これは日常生活でスマートに使えそうだな、とおもった語句をすこし引用しますね。
 
篤実
温厚篤実、という熟語もあります。穏やかで誠実の人を評して使う言葉。目上の人を褒める時なんかに使えそうです。
 
仄聞
「そくぶん」と読み、噂話とか風の便りとかいった意味です。「仄聞したところによると」とかさらっと使えるとかっこいい。
 
忖度
最近流行ってますよね。本来は物事が上手くいくように、誰かのために配慮するという意味だそうですが、すっかり良くないイメージがついてしまいましたね。
 
お膝送り
飲み会や会席の場などで、席を詰めてほしい時に「お膝送りをお願いします」などと使うらしいです。
 
 
 
あと、間違えやすい語句もいくつも載っていました。少し引用すると
 
幸先が良い
「幸先が悪い」っていう言い回しは間違っているみたいです。「幸先」という言葉自体が「上手くいきそうな予感」という意味なので、幸先が悪いだと意味が通じないらしい。
普段から使っちゃってました。気をつけよう。
 
檄を飛ばす
「激」じゃなくて「檄」を飛ばす。
目上の人が喝を入れる、みたいな使い方がよく見られますが、本来は考えや主義主張を周りに知らしめること、という意味らしい。
 
敷居が高い
私には恐れ多くてとてもとても……という意味ではなく、不義理のため気まずくて行けない、っていう意味合いのようです。これも間違って使ってました。気をつけよう。
 
なおざり、おざなり
これも間違いやすいですよねえ。どっちがどっちだっけ?となってしまう。
なおざりはいい加減な様子を表し
おざなりはいい加減な言動を表すらしい。
無理矢理にでもイメージつけちゃうと覚えられそうですね。
 
 
 
これ以外にもたくさんの語句が掲載されています。大手企業の重役と接する機会の多いデキるビジネスマンしか使わなさそうな言葉がほとんどですが。語句とその本来の意味が見やすくレイアウトされているのでぱっと見ただけで勉強出来るし、文庫サイズで持ち運びやすいので手軽で良いとおもいます。
 
せっかく勉強しても使いどころがないと忘れちゃうけどなあ。他言語を学ぶ時と似てるかもしれない。
こういう言葉遣いとか言い回しとかが普通にしてても出てくるような人間関係を構築せよということだろうか。ハードル高い。
 
 

死ぬくらいなら会社辞めれば、略して死ぬ辞め

 

「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)

「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)

 

 

 
装丁画や挿絵を手掛ける汐街コナさんの、デザイナー時代のブラック会社勤務経験を漫画化した作品です。
表紙から切迫感、緊急性が漂ってくるようで、ずっとずっと気になっていました。手に取るまで少し時間がかかったのは、読むのが怖かったからです。
同じ「踏み切る」なら会社を辞めるよりもむしろ、と思い詰めた心の動きに覚えがあるから。
 
 
 
感情が麻痺する前に
「うつかも?」とおもう兆候はいろいろあり、食欲不振と不眠がその代表。その病気によって様々みたいですが、目眩や吐き気、幻覚や幻聴が表れたりする場合もあるそうです。
疲れてるだけだろう、と軽くみて頑張り続けていると、ある日急に動けなくなる。起き上がれない、玄関から出られない。
 
症状をきちんと自覚し、動けなくなる前に病院にかかるなり休むなりできる人は、そもそもうつにはならない人。
うつを始めとした精神障害を患う人は、その勇気がない。決断できない判断出来ない、休めない。症状を自覚できない。
みんなもこれくらい頑張ってる
残業100時間とか普通
こんなことで休むなんて情けない
 
麻痺してしまうんだとおもいます。
辛くて苦しいのは他の誰でもない自分なのに、自分の声を聞くことができない。
周りと比較して、世間体が優先順位の一番になる。
体も心も麻痺した状態で無理し続けるから、ある瞬間にぷつっと切れる。マリオネットの糸が上からハサミでじゃきんと切られるイメージかな、と読んでいておもいました。
 
そういえば、前職時代に食欲不振や不眠はたまに、っていう程度でしたが
幻覚幻聴金縛りは3セットでしょっちゅうありました。葬儀社勤めだったのでそのせいかとおもってましたが、それだけでもなかったんでしょうね、きっと。
抜け出せたいま、格段に楽しいです。
生きるのが。
 
 
 
なんでもいいから休め
著者である汐街コナさんは、自身の経験から、少しでも「普通じゃない、おかしい」と思ったら休んでくれ、と投げかけてくれています。
読んで救われるひとはたくさんいるし、ギリギリで踏みとどまれたひともいっぱいいただろうな。
 
休むのって勇気要るよね。
みんなも頑張ってるのに、そう思っちゃうとある程度は無理して仕事した方が世間体も保てるし何より「楽」だし。
でもその楽は続かない。一過性のもの。どこかでぶったぎって無理にでも休まないと。それが難しいんだけどね。
 
過労自死したひとたちを何人か送るお手伝いをしましたが、あとに遺される側には虚無しかないんだ、とおもう。
それこそ「死ぬくらいなら会社辞めれば」いいのに。そう思わせられる。でもそれが出来なかったんだ。なんで、なんでって今度は自死遺族側が自分を責めてしまうんじゃないかな。
 
そうなる前に休むんだ。何がなんでも。
みんなも頑張ってる?  関係ないよ。
辛いと感じてるのは自分自身。休むのは甘えではない。そこを何度でも意識して、原点にして、帰ってこられるように。
 
読みやすく、頭に入ってきやすいし、漫画だから「活字が頭に入っていかない」っていう鬱症状が出ている人でも、絵だけ追うだけでもメッセージが伝わるのではないかな。
 
自分の身は自分で守りましょう。しんだらそこで終わりだよ。会社は潰れてもいいじゃない。先輩や同期だってマジでやばいとおもったら勝手に行動します各々で。
すべて投げ出して休んで自分を守る。
それからの話です。
 
 

下から見るか?横からみるか?

 

例の打ち上げ花火映画見てきました。

酷評がちらちら見えていましたが思っていたよりは良かったです。映像美麗、音響も主題歌も場面を考えた構成で効果的に活きているなとおもった。シャフトなので物語シリーズを彷彿とさせる動きや演出あり。菅田将暉の声はちょっと浮いていた。広瀬すずの方が声優としてハマってる、自然。

 

 

 

 

 

ここから先はストーリーの考察にはいるので未見の方はご注意。

 

 

 

 

 

賛否両論わかれているエンディングですが
ifストーリーというか平行世界ものとしては理想的な終わり方なんじゃないかと個人的にはおもいました。はっきりとした答え、正解を求める巷間の声もわかるけど
あとはお好きにご想像にお任せされた方が好き勝手に解釈できるし受け手側としては幸せじゃないか?

 

 

ほんと私の自分勝手な考察としては
あの不思議な球の力を借りて、典道となずな2人が考える「自分たちにとってより良い世界」を求めて
主軸世界とは違う世界線を模索する、半永久的に続く旅に出たんだとおもう。
(酔っ払い花火師によってあの球は打ち上げられてしまいましたが)

 

 

とにかく2人だけでずっといられる都合の良い世界に行ったんだきっと。
それか「最後の1日」をずっと繰り返してる。
典道だけ記憶を保持した状態で。それも辛いけどな……。

 

 

いくらでも想像の余地はあります。そういう余裕というか空間を残してあの物語は終わってくれたんだとおもう。
これだ!という終わりを公式が提供してくれないと不完全燃焼してしまうようでは想像力がしんでしまう。きっとそういう警告でもあるよ。
もっと不安定要素を楽しんでいきましょう。そういうことにしましょう。

 

 

あと主題歌めちゃくちゃいい。見終わったあと即ダウンロードしました。これを良い音響で聴くためだけに鑑賞料出す価値あるぞ。

 

 

「豆の上で眠る」

 

豆の上で眠る (新潮文庫)

豆の上で眠る (新潮文庫)

 

 

 
このタイトル、「えんどうまめの上でねたおひめさま」という童話がモチーフになってます。もうそれだけでなんだか可愛らしいし、興味をそそられるな。湊かなえ好きなので文庫化を知ってそそくさと購入しました。
 
 
物語の概要
ある仲の良い姉妹のうち姉のほうが突如姿を消してしまう。神社で遊んだ帰り道の一瞬のことだった。やがて、しばらくして戻ってきた彼女のことを、両親含め周りの人間は安堵とともに迎え入れたが、妹の結衣子だけは違和感を拭いきれずにいる。あれからだいぶ時間が経った、いまも。
 
姉の万祐子が行方不明になった10年以上前の夏、8月5日の回想と現在を行き来しながら物語は進んでいきます。
小さい頃から万祐子ちゃんは控えめな性格で、字が綺麗でお菓子作りが得意、体の弱いところがある可愛らしい女の子だった。それに比べて妹の結衣子はおてんば、字も汚いし卵もまともに割れなくて、姉とは血が繋がっていないのでは、とちらちら悩む日々。
 
母親も、きっと私ではなく万祐子ちゃんの方がすき。
そんな中、自分が一緒に帰っていればもしかすると、万祐子ちゃんは無事だったかもしれない状況下で姉は失踪してしまう。罪悪感、恐怖と不安。母親への申し訳なさ、いたたまれなさ。
 
 
失踪当時、現在から数えて約10年前の夏の回想は緊迫感溢れ、誘拐事件を想定して警察の捜査が入るほどになっているが一転、語り部である妹・結衣子にとっての現在では姉の万祐子は無事に「かえって」きている。
読者であるこちら側は冒頭から振り回されます。いったい何があったんだ……?と続きが気になって繰る手が止まりません。
 
 
帰ってきた姉はほんとうに、あの「万祐子ちゃん」なのか。
まさに「豆の上に寝かせる」ようにしてカマをかけ、試すようなことばかり繰り返す結衣子。姉は本物なのか。疑う私が間違っているのか?
 
 
読後感
湊かなえの作品だ、って意識して読むと、ダークさは薄味です。今まで読んだ中から挙げると「夜行観覧車」あたりが雰囲気似てるかも。家族で問題抱えて奔走・迷走するあたりが。
 
そして読後感は決して良くない。
話の流れはミステリーに慣れてる人だったらよめる。最後に明かされる真実も「やっぱりそうだったか」とおもう。
これはミステリーよりも、家族の在り方や向き合い方を真っ向勝負で問われる作品だと言えるとおもうし、さらに因数分解していくと「ひとってなんだ」「偽物本物ってどういう概念だ」っていう、まるで哲学と取っ組みあってるような気持ちになってきます。
 
血の繋がりが最適解ではないんだよな。
 
 

誰でもうつになる可能性がある

 

うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち

うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち

 

 

序盤で「はッッッッ!」となった箇所があって。
うつを治すためにはどうすればいいか、端的に書かれた一文。
自分を好きになればいい

 

やっぱりそうなのか、と。

 

この現代日本に「鬱になる可能性ゼロの人」なんていないと思っていて、だからこそ、いまは心身ともに健康である自分だって、いつどんなきっかけでトンネルに迷い込むかわからないだろ、とおもってます。

 

自衛のためというか予防のためというか(できるのかどうかは置いといて)鬱に関する書籍を読んで「こういう時が危ないんだな」「こういう考え方が危険なんだな」って方向性をひとまず掴んでおきたい。

 

そう思い、まずは読みやすい漫画から、と思って手に取った本書ですが。
自分を好きになる。
これは……、この記事でも触れたキーワードだ。

 

ohitori-y.hateblo.jp

 

 
やっぱり自分のことを好きであるか嫌いであるか、がバロメーターのひとつなのかしら。自分のことを好きな状態で鬱になるわけないもんな、よくよく考えたら。そんなに重要な概念だったとは。あらためて驚きだ。

 

 

鬱になるきっかけのひとつ 

人が鬱をはじめ精神障害を患うきっかけのひとつに(幼少期の虐待やイジメ等、明らかに他人によって害を被る場合を除き)、「仕事または学業において大成功をおさめたとき」があるそうで。

 

言葉で見るとすごく良い状況だし、成功して気持ちも乗ってるはずなのに、なんで??っておもうんですが

 

成功すると、その結果を受け取り、継続させようとがむしゃらに頑張る

周囲からの期待やプレッシャーに負けないようにとさらに頑張る

頑張り続けて

いざって時に望まれた結果が出せなかったりすると、無力感に襲われうつ発症のきっかけに。

 

という流れが実に多いということです。

 

 

 私も、一歩手前だったのかも

私自身のことを書かせてもらうと、これまでの人生を振り返ってみて、もしかしたらあれはうつ(もしくはその兆候)だったのでは?と思い当たる時期が2つあって


①大学生の頃
②入社して3年くらい経った頃

 

学生の頃、とにかく学校に行くのが嫌で、朝起きて体が動かなかったり、せっかく動いても玄関から出られない、電車に乗れないってことが年に数十回あったり
それでも私立だったんで、馬鹿みたいに学費高いし、卒業出来なかったり留年したりしたら親に合わせる顔ない、と思ってそこだけは死ぬ気でなんとかしましたが
そんな中でも、卒業論文通らなかったら全体の単位足りなくて卒業不可能、っていう状態でした。


葬儀社勤めだった頃は、入社した頃は仕事がとにかく忙しいし覚えることも膨大にあるしで、今となってはあんまり記憶ないんだけど
3年経ってある程度慣れてきた時に、食欲なかったり食べ物の味が分からなかったり本読みたいとか映画見たいとか、趣味に対する意欲が全く湧かなくなって感情が死んだみたいになりました。

どちらのケースも特に大きな成功をおさめたわけではないんですが、もっと視野を広げてみると、
「大学に受かった」「新卒で正社員採用された」
というだけでも私にとってはもの凄い成功、と言えなくもないかなと。

 


通院や服薬の経験はありませんが、今思うと片足突っ込んでたのかもな、と俯瞰できる今ならおもいます。
仕事辞めてフリーターやってる今は、やりたいことやれてるし夢もあるし上々です。

 

 

「うつ」の前に自衛する入門書

うつ寛解のためには思い切って仕事を休む、会社を辞める、自分を好きになる努力をする。

こうやって考えてると、やっぱりどれだけ表向き明るく何の問題もなさそうに見える人でも、危険性は潜んでるんだ、とおもえてならないです。

 

この「うつヌケ」は漫画なので読みやすいですし、うつをはじめとした精神障害についての正しい知識も得られるし、症状はどんなものなのかもわかりやすく書かれてるし、うつとしての入門書としてとても良いなと感じました。

 

同時に、現在うつ状態で苦しんでいる人にとっても救いのきっかけになると確信しています。

 

 

 

 

アラサーにして自分の野心を思い出した話

 

小さな野心を燃料にして、人生を最高傑作にする方法

小さな野心を燃料にして、人生を最高傑作にする方法

 

 

 


読んでいておもったことは、やっぱり私の夢は文章を書くことを仕事にすることだってこと。自分の本を出すこと、それが人の役に立つこと。
そしてゆくゆくはブックカフェを開店して、本好きのお客さんの相手をしながら晩年、好き勝手に本を読んで過ごすこと。(そのためにも、目は大切にしたい。)
直視したくなかった。これが私の夢だ!って自覚したくなかった。だって叶わないから。叶わないと半ば思ってきたから。
この本を読んでたら、もしかしたら叶うかも、信じて行動を起こして、その行動を続けて、信じて、続けて続けて、それを継続していたら、きっと。
そう思わせられちゃうくらい「野心」に溢れてる内容です。

 

 

 

ブロガー・作家として活躍するはあちゅうさんと、ライフスタイルプロデューサーという肩書の村上萌さんの共著です。
おふたりがどんな経緯を通していまに至るのか、学生時代からさかのぼって、割と赤裸々に書かれてます。

 

構成としては、おふたりの学生時代から就職にかけての「自分探し期
いま自分のしていること、選んできたことは正解なのか、色々とやってみる「試行錯誤期
やりたいことを定め、それに向かって邁進する「理想の自分実現期
と大きく3つに分かれています。

 

呼んでいて個人的にぐっときたのは、就職活動について書かれている部分で
もしあの頃にこの本を読んでたら、自分の夢や目標に変なフィルターをかけずに好きなこと出来てたかもなあ、とおもう。
今となっては、あのとき何を考えて葬儀会社に入社したのかわからないし、辞めたい辞めたいと毎日念じつつ結局5年近くも勤めたのか、ほんと定かじゃないです。

 

 

あの時期が無駄だったとは思わないけど、やっぱり好きなこと、やりたいことになりふり構わず向かっていくべきだったよ。若かったもん。きっと「正社員になれるから」「給料いいから」っていう世間体と目先の利益だけで飛びついちゃった。今さらこんなん言っても仕方ないんだけどすこぶる後悔してる。

 

 

作中ではあちゅうさんが言っていることで
かっこ悪いことも率先してやってこそ、誰かの心が動く
という一文があって。
あー。あー。そうだね。そうだよなあ、とおもった。かっこ悪いことから逃げたんだな私は、ってね。親に認められたいから正社員になった。若いのにそんな大変な仕事やってるんだ、って言われたいから葬儀会社に入った。

 

 

実際認められたし、ちやほやもされました。この表現が適切かはわからないけど。
当時23とか24くらいで、しかも女性で、葬儀式とか宗教とかその当たりに関わって知識のある人なんて周りには同期の子たちしかいなかったし。
どこか満たされた気分というか、誇らしい気分でいたよ。
でもそんな時期は長くは続かなかったな。激務の中で友達は減ってやりたいことも見失って、とりあえず毎日毎日飛び込んでくる仕事をこなしてやっつけて。

 

 

こうやって思い返してると、うん、やっぱり人生、やりたいことやるべき。これをしたい!って思える何かがあるなら向き合った方がいい。誰も代わりにやってくれないんだし。責任だってとってくれないけど。

わたしだって遅くないと思ってる。
やりたいことやりたいと思って辞めたんだし、それでもまだ今この瞬間だって迷走してるけど。

 

 

 

あと個人的にもの凄く刺さった箇所があって

 

 

「エッセイやコラムを書きたいと言う人の9割が、特に普段から何かを書いているわけではなく、誰かを紹介しようにも、サンプル原稿も、作品を見られるブログなどもなかったりします。それは『書きたい』のではなくて『書く人だと思われたい』だけではないでしょうか。(中略)何者でもない人ほど、先に場所を欲しがるんです」

 

ここ。いてててー!という感じ。
まさにそう、おっしゃる通り。場所が欲しいんです。書きたいっていう欲はあれど形にはなってなかったり、とりあえず評価が欲しいだけだったり。

 

 

コラムやエッセイを書く人になるためには書くしかない。ただ漫然と書いていても意味はなくて、書きたいことが読み手に伝わるように書く、そして公に目に触れる場所に出す努力、然るべき方向へ発信する努力が必要。
謙遜しすぎず、自作のものを自信もって売り出す努力も必要ですよね。
そこからあわよくば誰かに見初めてもらって……なんていうシンデレラストーリーもまだまだ期待してしまいますが。
まあその辺だって努力の継続がなければ卓上の空論です。

 

 

夢を叶えるための努力って、字面では大層なことにおもえるけど、やろうと思えば今この瞬間からだってできる。
留学したかったらお得なプランを検索するところから始めるとか。
英語覚えたかったらSkype英会話はじめるとか。
起業したかったら関連書を読むとか。
結婚したかったら婚活パーティ行くとか。

 

 

後先考えずとにかくやってみる。
年齢は関係ないな、って今なら思えます。この本を読んだ今なら。

 

 

ずるい自分を許すためにまず意識したこと

前回の記事でもちらっと触れたんですが

 

ohitori-y.hateblo.jp

 

自分を好きになるには、まず自分の「どんなところが嫌いか」を明確にして、見つめて受け入れて許す、っていうプロセスが必要だと知って

ひとまず私は自分自身の「ずるい部分」が嫌いだ、とここはもう明らかなので

ここからやっつけていこう、と思うに至りました。

 

ずるい自分を自覚して見つめて受け入れて、許すためにまず、意識したこと。

自分のためにも書いておこうと思います。

 

 

 

 ・どんな時に自分のことをずるいとおもうか

 

ずるい自分を見つめるために必要な前段階の作業として、どういう瞬間にそういう自分を感じるか、ていうのをはっきりさせたい。

 

わたしの場合は、何を置いてもまず仕事のとき。

大なり小なりミスをして、「あ!またやった!」となった時に、正直に先輩または上司に報告して、そこから素直にリカバリーを図れない、とき。

ミスしたけど、なかったことにする。

見て見ぬふりして隠蔽して流す。私じゃないですよーって顔をして、そのまま仕事を無理矢理に終わらせ、何気ないふうに「お疲れ様でしたー」って、帰る。

 

あともう一つあって、人と会う約束をする時とか、断りたくてとっさに嘘をつくとき。

仕事だから、って言ってとにかく断りまくる。人と会いたくない会話したくない、そんな時に半ば条件反射で嘘つくようなときに、「あーずるいなー」となる。

 

(ここで言っておきたいのは、決して会う友達や知り合いのことが嫌いなわけではなく、ただただ私の問題なんだよってこと。病気みたいなもんなんだ、これという理由はないんだけど人と会うことに耐えられないときがあるんだ)

 

上記2つのシチュエーションで主に自分のずるさを実感するわけですが

この真っ只中で私が何を考えているかというと、ひたすら罪悪感です。そして逃げの気持ち。ひたすら逃げ去りたい、この状況が過ぎ去ってほしい、早く時間が経って無かったことになればいい、っていう気持ち。

 

さて、こんな時に、次の段階として何をすればいいか。

 

 

・ずるい自分をただひたすらにみつめる

 

「みつめる」ってどういうことか、私なりの解釈でいうと

その状況を体中で感じる、っていうのと

その時の感情をひたすら味わう、っていうことかな、とおもいます。

今まではそんな自分を認めたくなくて、受け入れたくなくて、逃げたい逃げたいとおもって視界にも入れずに逃げてましたが

そこをぐっとこらえる。

努力が必要だとしたらここかな、とおもう。

 

正直にいって今のわたしはまだまだこの段階です。逃げずに目を逸らさずにいるだけで、現実では何の行動も起こしてません。

本来であれば、ミスを自己申告して謝らなきゃならないんだけど、人間としてそのレベルに至っていない。いずれはこんな自分もみつめて受け入れなきゃならない、とは頭ではわかってるんですが。

 

そして、そのあとはもう

 

・受け入れる、そして許す

 

だけです。

最後まで、ずるい自分を更生する行動は起こさないつもりか、と思えてならないですが

受け入れる、ってのをきちんとやり切れてから、の話なんです。それは。

そして心底許せてからでないと素直になれない。謝れない。世間の人からみたら何を甘えてんだ、と石を投げられるでしょうが。

 

受け入れるというのは、イコール許すだとおもいます。受け入れられたらもう許したのと一緒というか。

許せるのは自分しかいない。だってこんなずるい自分を手放しに許す人なんて自分以外にいないし。親だって厳しいよ。

だったらまずは、自分だけは認めて許してあげる。はっきりと「許せたな」とおもえるサインみたいなものは、ずるい自分を意識しても心が重くならなかったら、かなあ。

「ああずるいよ、でもしょうがないじゃん!」って開き直れるかどうか。

判断材料はそのへんの心の動きかなとおもう。見逃さないためにも常に自分の感情を意識して、みつめてあげることが大事だと。

 

 

ここまで書いてきて思ったけど、めちゃくちゃ壮絶な道のりだ。受け入れて許す境地に至るまでいったい何年かかることやら……。

もしかしたら死ぬときまで完全には受け入れられないままかもしれませんが、まあ、そのときはそのときで。